通説と異なるところが面白い

 日記を書くのがいつもより遅れたは、忙しいというより忘れていたから・・・いや、いやいやいや・・・ごめんね、エア読者様!(オイ
 まぁこんな本が二日ほどで読了できるぐらい、消費税の影響で暇と言えば、暇です。暇じゃないといえば暇じゃない。どっちなんだ、はっきりしやがれ!!ええ、おっしゃる通りです。

 中国史上に名高い三悪女(他の二人は武則天西太后)の最初の一人で、自ら皇帝になった武則天よりも立場が似ている西太后の方が、彼女と良く似た悪事をやらかした、と言われている呂太后に関する論述です。
 呂太后前漢の高祖の妻であり、彼亡き後の十数年間政権を担い、彼女の死後、呂一族は劉氏の天下を奪おうとしたという事で抹殺されてしまいます。
 著者は『史記』を読み返し「ん?通説はどうも間違っているぞ?」と感じたようです。
 まず、呂太后前漢の高祖劉邦の妻ですが、寵愛を受けた存在ではなかったそうです。彼女の前にも身分が低いか、財産家ではない家出身の妻がおり、長男も生まれていた(斉王肥といいます)、また戚姫という愛人が劉邦にはおり彼女が生んだ息子が自分に一番似ていると、後継者にしようと考えた事が一度や二度ではなかったようです。
 にも関わらず彼女は最後まで劉邦の正妻の地位を守りましたが、これは彼女自身の政治力ではなく、劉邦が当時覇を競った項羽に大敗した時、劉邦の父親とともに彼女自身も項羽に囚われた時に、彼女の長兄が劉邦を迎え、守り、再起の足がかりを与えた事によるようです。
 漢王朝が成立した後、それでも劉邦は各地を転戦せざるを得ませんでしたが、ここで長安を守り存在感を呂氏は示します。そして任侠勢力と言われながら、必ずしも一枚岩ではない功臣たちとのバランスをとりながら、劉氏にとって代わろうとする不平功臣を排除しつつ、劉氏の天下を確立していきます。
 しかしその支配の実体は自分の縁故、親密度に由来する人物を登用するもので、創業の功臣たちの中から自分に近しい人物を選んでいるうちはともかく、彼らが死没していくと呂氏一族に頼るようになり、功臣たちの不満が増大します。
 また劉邦長男、斉王肥の一族も、もともと自分たちこそが劉邦嫡流のいう意識を持っていたので、呂太后の子である恵帝とその子供たちの皇統を否定する動きに出ます。呂太后にとっての不幸は、力量に劣る一族と幼い孫皇帝しか残らなかった事で、彼女の死後、口火を切った斉王一族と功臣たちの攻撃に一気に呂一族は滅ぼされます。
 しかし斉王一族も功臣たちと確執があり、結局後継に選ばれたのは代王、即ち漢文帝でした。これが文帝の子景帝の時に起こる呉楚七国の乱の伏線です。反乱を起こした王族は斉王一族がメインでした。
 この論文を書いた方、おそらくアタクシと同年代の中国人女性なんですよね。外国人研究家が日本の学界に日本語論文を発表し、本として出版される事もあるんだなぁ・・・学会の空気といってもジャンルによって異なるのでしょうが、古代中国史は中国人研究家を受け入れやすいのでしょう。読みやすくて解りやすい、いい論文でした。