晴天

 快晴です。こんな清々しい朝・・・と言いたいところですが、やはり眠いです。早く寝るのはいいけれど、夜中の四時前に目が覚めて、意識があるのかないのか分からないうちに目覚ましが鳴るという・・・ぎゃふん。
 まぁ薬飲んでいる間は、こんな生活なんだろうな。
 さて読み終えたもの。

 中国の古代王朝で理想化された西周王朝、衰退し春秋戦国期と言われる東周王朝期を最新の考古学成果と文献解釈で考察された一般向きの本です。
 前代の商=殷が中央集権を推し進めようとして反乱にあい、その反乱主導者である周がとって変わる・・・というのを『殷』という同じ中公新書で読みましたが、その続編みたいな位置づけです。どうも著者が先輩後輩の間柄らしい。
 さて周ですが、どうやら農耕と牧畜を行う氏族だったようで、その連合体が殷を滅ぼし主導権を握りました。初期は王とそれを補佐する権臣がつかさどっていたようですが、王朝安定期は複数の家臣が合議制で政治を行っていたようです。軍事的な周辺異族への制圧行為と儀礼の二本立ての政治でしたが、中期以降、南方への軍事行動の失敗により儀礼に重点をおいた政治を行うようになりましたが、やっぱり実績が必要だよね、と軍事を行う王が出現。しかし軍事は勝利すればともかく、敗北したなら大規模な出費を賄う事ができず、家臣も諸侯も反対するようになり、西周はその支持を失うようになります。
 そして後継者争いから分裂、異族との戦いで滅亡。そして東周の成立も後継者を一本に絞れず、弱体化は避けられなかったようです。
 のちに孔子儒学を起こし、西周儀礼を復活させた・・・とかいうのですが、孔子が育ったのは西周の時代の四百年もあとですから、解る訳なく多分に『ボクが考えたちょーイカ西周儀式〜』みたいなものになったようです。それが新たな伝統を作り出す必然性を感じていた戦国の諸王に採用されたみたいですが、最初は儀式のみの採用で、儒学国学の位置になるのは前漢武帝以降、王莽、そして後漢光武帝ぐらいらしいです。
 さて衰微した東周はさらに勢力を分断され、なんかひっそりと消えていきます。もう誰も気にしていない。何の影響力もない。小さな国の内輪もめで消えて、後継者がいなかったからおしまい、みたいな。そう、もう武力を持たない王、儀礼だけの王は不要となっていたのでした。