あ、もうちょっとで読み終わるのですよ

 ハードカバーの論文集で、もしかしたら一度読んだかも知れないけれども、『新九郎、奔る!』の影響で『戦国期山内上杉氏の研究』を読んでいます。あと一章だけなんです。まぁいいや。それは明日で。
 んで別の本のこと。

伊勢国司北畠氏の研究

伊勢国司北畠氏の研究

 十四年前の本か・・・なるほど。
 南北朝期から戦国期にかけて南伊勢で勢力を張った北畠氏。これがどうも一族割拠の連合体らしかったこと。それも配下の一門衆は北畠当主子弟からの養子を当主にしており、それだけ求心力は高かったようです。しかし木造氏だけは別で父子相続をし、しかも官位に関しては北畠当主を超越する場合もあったという・・・
 恐らくこれは室町幕府の、元南朝中枢の北畠氏対策で北畠氏を牽制する理由もあって一族の木造氏を別待遇で、しかも在京させていたようです。
 また織田家に包摂された後、滅亡が確定していた訳ではなく、隠居していた北畠具教が反信長を決断した足利義昭に呼応した事が結果として族滅に繋がったようです。これも、北畠家名の存続を考えた時、政権として一体化していた足利義昭織田信長からの離反を決断した時、今までの足利将軍とそれを支援していた大名の関係ならば、足利将軍と対立した場合政治的に孤立し不利に可能性が高かったので、織田家に従う危険を考えれば、そういう選択肢もあるかな、と。
 これは信長の能力というよりも、幸運があったから乗り切れたというべきですね。武田信玄が健康体で、朝倉義景浅井長政が歩調を合わせれば、信長は二正面作戦を強いられ、かなり危ない状況になった筈ですから。信玄が急死し、その機会に朝倉・浅井を滅ぼす事ができたので、信長は優位を確保できたとも言えます。
 ま、そんな感じ?