もうちょっとで読み終わるのです。
昨日も書いたな、そんなこと。ほんとに後数ページで読み終わる本があったのですが・・・ま、いいや。今日はこれだけで。
足利義持:累葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり (ミネルヴァ日本評伝選)
- 作者: 吉田賢司
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2017/05/10
- メディア: 単行本
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まず、彼の時代まで朝廷において足利将軍家の立場が確定していなかったこと。足利義満は准法皇の立場を獲得しましたが、これは彼が天皇と母方の従兄弟関係にあったというのもあったので、この地位を代々獲得するのは難易度が高い。なので義持は准法皇という立場は辞退し、その代わりに摂関家に匹敵する人臣第一位の立場獲得を志向しました。そしてほぼ達成し、以後の歴代足利将軍は摂関家に準じるか、それ以上という立場を得ます。
また『応永の飢饉』に代表される災害にも祈祷ばかりではなく、たとえば酒麹の専売によって造り酒屋を制限したりして米穀の価格切り下げを試みました。もっとも下がり過ぎて馬借などの運送業者から「運賃取れねぇ、やってらんねぇ!!」という反発を受けましたが。
『日本国王』を称しての遣明使の派遣による莫大な収益を諦めた件は、足利義満の『日本国王』号が詐称ではないか、と問題視されていたらしく、内々に行っていたようです。なので宋学を学んで大義名分論を気にした義持が『国王』号を辞退し正式な国交を取りやめる事で国内の反論を封じたようです。
他にも南北朝和睦条件で義満が遠慮していた北朝皇太子問題は、とっととケリをつけて北朝の皇太子を立て、かわりに南朝の人間の経済保障だけはしてやるとか、しています。
ただ彼の時代、ほぼ当時に鎌倉公方管区での『上杉禅秀の乱』が起こったり、朝鮮が『倭寇の根拠地』対馬を襲撃したり、重く用いていた筈の弟義嗣の造反騒ぎがあったり、そして前述の大飢饉・・・問題が次から次へと立ち起こり、そして病弱な一粒種の息子義量の死去でストレスマックスになり、酒や祈祷に逃げたらしいですね、晩年は。
結局のところ彼がなしてその後の室町幕府体制で長らく引き継がれるものは多く(都市収奪型財政をとり、在京大名合議制でコンセンサスをとり、朝廷においては人臣第一位となる)あるのですが、後をついだ弟義教に対して「誰を選んでも同じだから籤引きで決めろ」という事しか後継者に対して言わなかった事が祟って、かなり冷たくあしらわれ、それが後世の評価にもつながったみたいですね。
祈祷ばっかで非合理的な人間だと思っていましたが、そうぢゃなかったって事ですよ。はい。