よそごとをやっていて

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足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

 目から鱗を連発しています。足利義昭織田信長は二重政権であると言われていますが、まだイメージとして実権は信長にあると考えられていました。んが、信長が担ったのは軍事指揮権を委任されるという事で、他の分野は足利義昭主宰の幕府が担っていました。今までの認識として信長家臣になったと思われていた畿内の武将たちは立場上信長と同列であり、上司は足利義昭のみであり、信長は実戦指揮官としてその権利を委託された存在でした。
 それまでの足利将軍の動員力は五千弱・・・親衛隊の奉公衆が二千前後と言われていますが、足利義昭は信長の軍事力を背景に動員力を強化し、筆者によれば二万ほど動員できたようです。すごくね?
 政治的主体は義昭にあり、信長は室町将軍を頂点とする室町体制の再建を目指したのであり、自己の領国は尾張、美濃、伊勢の環伊勢湾地域と認識し、義昭の『天下』と区別していたようです。
 三好勢を駆逐して『天下静謐』を実現しますが、その破綻は早くも若狭の武藤氏討伐から始まります。これは義昭を早くから支持し庇護した若狭武田氏の内紛に介入した戦いだったのですが武藤氏の背後には若狭に勢力浸透を狙う朝倉氏が存在し、作戦中に朝倉氏と交戦する方針になったようです。
 朝倉氏も早くから義昭庇護、支持を打ち出していますが、どうも義昭の幕府再建において重要な役割を与えられておらず、上洛も命じられた形跡がありません。その上で義昭の命令においての武藤氏討伐であり、北近江の浅井氏も、どうやらその利権から参戦した気配濃厚です(著作には明記されていないので自分の想像です
 その後『元亀争乱』においても義昭は最大の後ろ盾である信長と一体化しており、義昭の政策が原因で戦いが継続した側面もあるようです。
 この二重政権が崩壊した理由ですが、動員能力があっても褒賞する能力のない義昭政権を支持する武将が減っていったこと。にも拘わらず側近の横領などは見て見ぬふりをしていたこと。正当な褒賞が行われていない事に対して信長が非難をし、義昭が恩賞を与えなかった武将たちに信長から恩賞を与え、幕臣たちの信長家臣化が進んだこと。横領を咎められて反信長派を形成した幕臣たちが、『天下静謐』の軍事力に領域拡張、徳川との問題で織田信長に対して不信感を募らせていた武田信玄に期待し、ついに義昭に反信長陣営と手を組むことを踏み切らせたこと、らしいです。
 ただ足利義昭の動員力は信長の軍事力という担保あってのこそ、という側面もあり、となると武田勢の進撃が進めば更に味方した勢力も増えたでしょうが、武田信玄三河で引き返し、この世の人ではなくなってしまいました。準備不足の動員は失敗し、迅速な信長勢の攻勢の前に敗北。和睦を拒否した義昭は都落ちを余儀なくされました。
 どうも信長はぎりぎりまで和睦を、つまり室町体制の維持を望んでいたようでしたが、敗北したままでの帰洛は義昭も望まず、人質を要求したところで(人質を出した方が負け、という認識が当時あった)羽柴秀吉が呆れて席を立ってしまったところで万事休す、となったようです。
 面白い事に、都落ちした後も将軍でありつづけた義昭を、他の武将はそれなりに遇するのですが秀吉だけは無視するのですよ。結局彼が再び帰洛したのは出家して現職の将軍を退任した後でした。秀吉だけが義昭の価値が『征夷大将軍』に在職しているという一点のみであると認識し、それはもはや不要であると判断していたようにも見えますね。
 ながながとなりましたが、信長政権に内政政策が不在に見えるのは、そもそもそんな事を考えていなかったからではないでしょうか?だって自分の役割を軍事指揮官としか認識していなかった軍事にしか目がいかないものね。