昨日のつづき

 ジンに紅茶のチェイサーの話が長かったので、これの話をもうちょっとしたいです。

 二日に渡って同じ話題をするというのも珍しいですね。自分で書くのもなんだけど。
 さて三好長慶亡き跡の三好一族というか三好家首脳陣は二つに分かれたようです。一つは松永久秀(イメージ的に外様から長慶の元で出世したグループ)、もう一方は三好三人衆(イメージ的に三好一族がメイン。外様の人間もいたりするけど)。その中で起こったのが若年の三好義継と松永久通が起こした足利義輝殺害事件でした。主導したのはこの二人で、松永久秀は関わっていないらしいです。
 三好義継は武家として足利氏を超越しようとし、血統的にも摂関家につながる人物であり、長慶から見れば存命の三弟をわざわざ抹殺して後継者にした末弟の息子です。それでも長慶後継と認められる前に長慶が亡くなってしまったので、自意識と責任から手っ取り早く足利家を超越する事を狙い、短絡的に足利義輝を殺害。そのまま後任の足利将軍を決めずに、自らが権威になろうとしたようです。松永久秀はその路線に反対で出家していた後年の足利義昭を匿い、のちに幽閉したようです。足利将軍家の秩序を否定しなかったという事ですね。
 この混乱に誰も主導権を握る事ができませんでした。義継は権威を握る事が出来ず、三人衆は代替案を出せず、松永久秀も義昭を確保しながら主導権が握れない。ここで阿波三好氏の家宰的な人物、篠原長房がろくな支持者もいなくなった足利義栄という人物を担ぎ出します。明応の政変以来二系統に分かれた将軍家の片方です。ずっと阿波に逼塞していたから誰も知らん。ただ他に案もなかったので三人衆はそれに乗ります。ところが松永久秀が確保していた足利義昭を取り逃がす失態を犯し、三人衆と対立。ついに武力衝突となります。
 つまり信長が畿内制圧戦を行ったのは、この状態であったと。反阿波三好、三人衆勢力を結集して同盟を結び、足利義昭を連合して担ぎ出す体制ですね。
 その後の三好勢力の巻き返しは、斯波氏旧家臣系列での主導権争いが原因の朝倉織田戦、そして対等同盟から門下扱い、ひいては家臣化させられそうな危機感から信長を裏切った浅井戦を眺めながら行われます。決定的だったのが本願寺を三好側で参戦させたこと。どうも軍資金賦課よりも、三好氏との同盟を本願寺が選択した事が対信長(というよりも対足利義昭)戦に立ち上がった真相みたいです。
 三好側の不幸は、同盟の結束軸になる人物を得なかった事ですかね。義継は早々に三好家中の主導権が握れないとみるや義昭に下りましたし、三人衆も主導権を握らない。篠原長房は実力者ですが、あくまで阿波三好氏の人物であり、対外的な知名度や実績もそれほどではありません。
 長慶亡きあと、核となる人物を見出せなかった事が三好一族の凋落の一因だったのかも知れません。
 しかし同盟者が次々滅亡していく中で、最後まで三好一族は存続し、止めを刺されるのは豊臣秀吉覇権下になってから。しぶといですねぇ。それだけ地力のある一族という事なんですかね。