年配研究者の論文は敬遠したくなる

 そんな読後の気分でした。

 著者が家康スキーなのは解ったから、そういう主観的な意見は小説で書いてください。家康の評伝で家康を褒めたたえると、やらせに感じるオイラが異常なのか、素直ぢゃないのか・・・
 それ以外の感想は・・・ええっと、あんまり新しい事ないな、と。期待していた『三河一向一揆』もあんまり文量はなく、しかも通説のみみたいな感じで、あんまり・・・
 ただ関ケ原の合戦以後、徳川時代になったのではなく、豊臣家の公儀というのも存在しており、つまり二重権威の時代であったという事、かな?
 あと、大坂の陣の直接の原因となった銘鐘事件。家康側の言いがかりとまでは言えないと書いていますが、好機とみて畳みかけ、豊臣家の権威を否定しかかっている事だけは確かですよね。もちろん政治的に二重構造が混乱の下であり、名実ともに武士社会を徳川家の権威の下に統治する方が、安心安全な社会づくりに貢献する訳ですから、特にそれを非難するつもりは毛頭ないけれども・・・やっぱり無理やりなこじつけ感は漂うよね。
 つまり、当時の徳川にとって豊臣家を屈服させる事は政治的に難易度が高く、危険な行為であったという事なのだろうと思います。武家関白なるものを認めたら、徳川家は絶対の権威ではなくなり、反対勢力の旗頭になる事は間違いないのですから、どちらかが消える事になるのは必然であったとしても、そのハードルが家康にとっては『主家殺し』になる訳ですから、大変難易度が高い。
 最後まで秀頼の生存を迷ったというのも理解できます。保守的な常識人である彼にとって『主君殺し』は避けたい汚名ですから。
 しかし現職将軍の秀忠にしてみれば違います。これを機会に豊臣家の存在を消してしまえば、国内の統一が名実ともに完成され、混乱の種が一つ消えるのですから。
 んが、自分には疑問がありまして、秀忠の秀の字は、明らかに豊臣一門の通字ですよね。豊臣家を滅ぼしたのに、何故彼は徳川家の通字(に今後なる)家の字を名前に冠しなかったのか。これは豊臣本家を滅ぼしても、淀殿の妹と結婚して、豊臣一門の端くれに位置する自分が将軍職にあるのだから、豊臣公儀が滅んだのではなく、豊臣秀頼一家が滅亡したのだよ、というメッセージなのでしょうか?
 うーむ・・・どうなんだろう?