不愉快になったので読むの辞めた

 スタンリー・キューブリック監督作品で有名な『時計仕掛けのオレンジ』という作品があるのですが、最初の数章で、ちょっと、腹立たしくなってしまって読むのを辞めました。最近、特に昔の翻訳ものでこういう事が時々あります。なんだろうね?作品の趣味が合わないのか、翻訳の日本語が合わないのか、良く解りません。解説を読むと、やはり五十年代、六十年代の「管理社会への危機感」みたいなものを表現しているかな。
 現代、1990代以降を知っている自分たちからすると、第二次大戦前からこっち続いた全体主義=管理社会が次々に崩壊していき、今となっては表看板はともかく、実態まで管理社会を実現している国家は、ほぼないと言っていいかもしれません(中国やベトナム北朝鮮でも、TV画面を見る限り当局の管理というものは表には出てこない・・・ように見える。巧妙になったというべきか)
 なので管理社会への危機というのは薄くなっているかも知れません。だって、管理社会を実現する為には膨大な官吏が必要で、財源も途方もなく確保しなければならない。財源が真っ赤な国家が多い中、そんなところにリソースなんか割けるか、っていう感じなのですかね?
 ところが全体主義が世の主流になり大戦を戦った世代からすると、このまま時代が進んだら、国家が全てを管理して個人生活が危うくなるのではないか?と本気で危ぶんでいるのですよね。
 もちろん個人データに関しては、全て電子化してやりやすくなりましたけれども、それを管理する人間は多くない訳で、そもそも社会的に問題があると治安当局が判断しなければ、一般人のデータなんて見向きもされないと思うのですよ。時間の無駄だしネ。逆にいったらデータを見たがるという事は、その人に対して興味を持っているという事になると思うけど、そういう事なら電子データ化される前から調べる人は調べているから。
 まぁ、そんな能天気な事を言っていたら、いつの間にやら個人生活が全て把握されていたりしてね・・・そんなデータ、何に使うのか?と心当たりのない自分は考えたりするけれども・・・
 と、まぁ、読まなくてもここで考える事ができたから、ま、いっか、と。
 自分ってつくづく理不尽な暴力という奴が嫌いなんだなぁ・・・はい。