久々日本史ネタ・・・?

 そうでもないか。自分がそう思っているだけかな?
 この手の論文集は「あ、読んでみようかな」という思い付きで手に取っているのでアレなんですが、まぁ少し軌道修正が加えられたのかな?

足利持氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第20巻)

足利持氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第20巻)

 日本史の中でも室町時代というのは少しマイナーで、その中の鎌倉府というのは更にマイナーですが、当時足利一門の中では第二位の家格を持ち、関東に影響力を及ぼし、その野心は常に京の将軍家を上回る事でしたが、この四代持氏の時代に一旦滅亡します。一旦というのは息子の成氏の代に再興されるけれども、息子も結局抗争を起こして古河に移動し、これを契機に関東では一足先に戦国時代に入ったとも言われています。
 就任当時、幼かった事もあり後見人の叔父と前関東管領上杉禅秀により殺されかかりますが、幕府の支援もあって彼らを撃破。その与党の殲滅に乗り出します。
 ここから幕府の対応が曖昧で、この『禅秀の乱』と言われる騒乱は、恐らく関東管領を担っていた禅秀の犬懸上杉氏山内上杉氏の争いが発端ではないかと思うのですか(前に読んだけど、覚えていない。資料が少なくて曖昧な感じ)、この管領上杉氏は鎌倉公方に京都の幕府がかけた『鈴』のようなものでして、幕府よりに鎌倉府と幕府の調停を行う役割を期待されていました。その上杉氏内部の紛争が発端という事で、当初幕府は持氏か、禅秀派か、どちらを支援するか逡巡していたようなんです。結局持氏を支援しますが、鎌倉公方を掣肘する武将たちが禅秀派であった事もあり、この禅秀派の武将たちを幕府が支援した事から持氏の不信感が強まります。
 その後、何度も紛争、和解を繰り返しますが、母親の一族である関東一色氏をはじめとする側近を重用する持氏と管領上杉憲実との間に軋轢が深まります。今までは将軍家を蔑ろにし凌駕しようとする持氏を諫める憲実が止む無く幕府に協力して撃つ、みたいな論調だったのですが、幕府に対して不信感を持っている人間が、幕府の窓口みたいな顔をして自分に意見してくるのって、やっぱ不審だよね。信用できるのは母方の身内、とかなるのも致し方ない。
 ただ対立が武力闘争一歩手前まで進展した永享九年の事件を、具体的には持氏側近が挙兵して憲実を抹殺しようとしたのですが、憲実はいち早く退去。持氏も詫びを入れてこの時は和睦するのですが、ここで憲実は、もはやこれまで、という気持ちになったといいます。でなければ翌年の持氏滅亡の永享の乱で、憲実方と幕府の歩調があまりにも手際よく会い過ぎていることに説明がつかないといいます。まぁ憲実退去と、持氏討伐の命令書日付が一日の差でしかないので、当時の連絡事情からしたら事前に示し合わせていなかったら不可能な段取りですわな。
 結果、『いつもの紛争』と思っていた持氏は後手に回り、敗北、滅亡となりました。
 まぁ憲実って奴も土壇場で持氏の助命嘆願して却下されたら出家って、かなりエキセントリックな男だと思うよ?
 読み応えありましたね。