今日明日は休肝日

 そう決めた!!絶対飲まない〜。というか本当は晩飯も食べない方がいいくらいですが、流石にね。遅く帰宅し、ぬるい風呂に入って(焚き直すのが時間的にヤバいから)、あんまり疲れも取れぬまま翌朝起きるというのが五日続くのは、流石に辛い・・・今夜雨が降ったら鍋です・・・とか昨夜言われた気がするけど、勘弁して・・・
 今夜は早く寝るんだ・・・俺・・・(フラグか?
 さて、そろそろ読み終るもの。

鎌倉時代の足利氏と三河 (同成社中世史選書)

鎌倉時代の足利氏と三河 (同成社中世史選書)

 足利氏の室町幕府前史と、その重要な守護分国である三河の事を書いたものです。源頼朝にとっては母方の従弟で相婿の子である足利義氏という人物が、幕府最有力御家人である足利氏の基礎を築いたと言ってよく、更に北条氏と協力する事によって、東海道の要地である三河の守護に足利氏が幕末まで務める事になります。
 これがどれだけ凄いことかというと、東海道の他の国、幕府直轄の相模を除いたら、尾張から武蔵まで、北条氏以外の守護任国は三河の足利氏以外には存在しないのです。だからこそ足利尊氏の寝返りがいかに大きく、北条氏に絶望を与え、他の御家人には「あ、鎌倉に反旗を翻してもいいんだ」と判断させた事が決定打になったと言っていいでしょう。
 もちろん足利氏がずっと北条与党であった訳ではなく、義氏の子、泰氏は鎌倉将軍支持で北条得宗家に反対し、おそらく家督でありながら個人として出家引退させられ、一族でも処罰を受けています。
 幕府を二分したといわれる霜月騒動でも、やはり処罰される一族を出し、その心労から当主家時は自害しています。
 尊氏の父貞氏は幼くして当主となりますが、一族の統制を強め(というか残されている歴代当主の書簡では、貞氏が圧倒的に多い)、次代の尊氏が『天下を取る』下準備をしたといえます。
 足利氏は三河を日本東西の境目と意識していたらしく、特に守護所である矢作の、矢作川をその境目であると考え重視していたといいます。
 三河こそが足利氏の本拠というべき認識だったんですねー。