良く解らん
今夜飲み会なんですよ。これがまた大変強い人たちでしてね。対抗する為にも体調は整えないと、と、昨夜は早めに床につき、まぁ文庫本を読んで十一時前ぐらいに寝たのかな。んで気が付いたら・・・十二時なんですよ・・・なんで?
その後も悶々しながら寝床に転がり、はて、しっかり睡眠がとれたのかどうか・・・うーむ・・・まぁ今夜はあんまり無茶をしないでおこう・・・
さて読み終えたもの。
- 作者: 黒田基樹
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2016/03/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
ここから解る事は、国人領主であった真田氏が昌幸、信幸に分かれても数万石の大名(当時の分類では小名らしい)になったのですが、プレ江戸幕府の豊臣政権時代らしく、基本在京、あるいは在阪しなければならず、小田原や朝鮮への軍役、それがなければ伏見城築城普請など、様々な義務をこなさなければならなかったと。
信繁は秀吉馬廻衆ですが経済的には父昌幸の家臣を代官とし、昌幸の領地から収入を保証してもらっていたようです。借金もあったようで。
大河ドラマでは信繁はずいぶん信頼されていますが(そうでないとドラマにならないが)、実際は新参の外様でしかなく、それほど親しい間柄ではなかったようです。
関ケ原の合戦で昌幸、信繁父子と信幸が袂を分かったのも単純に婚姻関係によるものらしいです。信繁妻は大谷吉継娘ですし、昌幸娘の一人は石田三成義弟、宇田頼次妻になっており、信幸妻は実父本多忠勝、養父徳川家康なので。
しかし親密さでは信幸=三成間は相当数の書簡が残っており、三成にとって信幸が徳川方に走ったのは衝撃だったようです。
あと、もともと関ケ原の戦いで徳川秀忠の軍は中部地方で唯一西軍方についた真田昌幸の上田城を攻略する為に進軍したらしいのですが、群発的な小競り合いの後、主戦線の進展を見て急遽西上命令が届き、撤収したというのが真相のようです。特に真田昌幸が戦場で知略を巡らした訳ではなく、まぁできる兵数差でもないですしね。三万数千対二千なんぼですもん。
大坂の陣での信繁の活躍から、父昌幸にも伝説が付加されたという話ですねぇ。