まだ眠れます・・・

 昨夜は午後九時前に就寝しました。たぶん八時ちょい過ぎぐらい。もう眠たくて眠たくて仕方なかったので。風邪気味ですかね?おかげで延べ九時間ぐらい寝ましたよ。二時前後に一度起きて、寝て六時前後にまた起きて、六時半に起床という形ですから、だいたいそんな感じ。
 日中も眠たくて仕方なくて、シナリオ作成とか、掃除をやる気にすらなれなかったですからね。水曜日に町内の飲み会で例によってしこたま飲んだせいなのか、それとも季節の境目でこうなるか、良く解らないですけれども、明日明後日はコンベンションに行くので、やっぱり早寝を心がけます。
 さて読み終えたもの。

 八世紀に入るころ、大和朝廷の軍と東北地方で争った蝦夷の指揮官が阿弖流為なのですが、まぁなんとなーく知ったつもりでいた事を読み直してみようかと借りてみました。
 朝廷と蝦夷の関係も、敵対したり交易したりの繰り返しで、阿弖流為の前代から少年、青年期は穏やかな日々だったようです。ところが孝謙天皇の死によって変わります。孝謙天皇の下で出世し、蝦夷側の利権を代表していた一族が失脚し、更に皇位継承権が弱い光仁天皇の即位によって、彼の皇位を戦争の勝利によって正当化、強化しようとした集団、特に天皇自身の意思によって戦争が開始されます。
 しかし地の利を得ている蝦夷側の勢力と朝廷側の大軍は一進一退の攻防を繰り広げ、光仁天皇から皇位を継承した桓武天皇は母親の身分が低かった事もあって一層戦争を推進する立場になりました。
 朝廷の現場指揮官と蝦夷側指導者の間では、互いに武力で相手を圧倒できない事を理解しており、朝廷も蝦夷も物資や人命を疲弊させるばかりの戦争よりも交易による利益を望んでいました。特に蝦夷側の方が自分たちの生活圏での戦争であり、講和を強く望んでいました。なので、阿弖流為などの指導者が人身御供となり、その命を朝廷に奪わせる事で相手の面目を立て、講和に持ち込んだというのが真相のようです。
 経済的な目的よりも、政治的なものが優先する戦争でしたから、どちらかが折れれば折り合いをついたのです。奈良時代後期の皇位継承の不安定さが、やらなくてもいい戦争を巻き起こしたと言っても過言ではありませんねぇ。
 その後、東北地方では前九年の乱まで二百年ぐらい記録に残る兵乱は起こっていません。そしてその前九年の乱も源氏の利権拡張の野心によるものだし・・・まぁそんなものなのかなぁ・・・