オクトーバーフェスト初日は曇り

 一週間ほど夕立以外は晴れが続いていましたが、週末を前にして天気が梅雨っぽくならなければと決意したのか、下り坂まっしぐらになりそうです。土日は長野の蓼科に慰安旅行なのに・・・
 この慰安旅行、某サークルさんの企画で初めて行う事になったものなので、どういう段取りなのか、よく解っていません。具体的には、どんだけ酒を持って行っていいのか、が解らない。普段の竜舞亭なら好きな葡萄酒一本とつまみを用意しておけば、他の人の持ってきた酒を飲みながらグダグタしつつボドゲをやる展開が見えるのですけれども、今回は様子見ですね。葡萄酒一本はコンビニで調達する気ですが(あ
 さて読み終えたもの。

戦国期足利将軍家の権力構造 (中世史研究叢書)

戦国期足利将軍家の権力構造 (中世史研究叢書)

 この論集の内容とほぼ同じ物を別に読んでいたせいか、半分寝ていましたが(ナニ)、解った事は、将軍近臣といえども従うのは経済的に保証してもらえる、つまり領地を安堵してもらったり実効支配できたり、はたまた将軍の権威を利用して横領できる限りであり、それができなければ政治的に京から出奔せざるえなくなった将軍についていく近臣は少ない、という事です。
 戦国期は応仁の乱東軍系と西軍系に分かれて将軍家が争っていましたが、終始有利だったのは比較的在京していた東軍側であり、近臣たちも彼を支持している者が多かったからです。もともとの原因からして、九代将軍義尚死去にともない西軍方に担がれていた義政弟義視の子、義稙(何度も名前が変わっているけど、これで統一)が西軍についていた自身の近臣を取り立てて、前代の将軍近臣を遠ざけた事から始まった分裂でしたけどね。
 最後の将軍義昭が出奔した後をついていった近臣は少なく、多くは明智光秀の配下につきました。これは幕府近臣たちの領地が丹波に多く点在し、その収入を保証してもらう手っ取り早い方法が光秀配下になる事だからでした。
 明智光秀が本能寺で信長を討った背景には、この幕府旧臣たちの京の利権回収という欲求が原因の一つではないか、と思ったりもします。
 そんな感じ?