もう少し・・・

 そんな感想を持ちました。

足利義昭 (シリーズ・室町幕府の研究 第2巻)

足利義昭 (シリーズ・室町幕府の研究 第2巻)

 足利義昭に関する研究は、ここ十年で『信長の傀儡』から『最後の室町幕府主権者』に変わってきているように思えます。良く信長との『二重政権』と称されているみたいです。命令書とか許可書とかを当事者が、義昭が主催する幕府からのものと、義昭政権を軍事的に支える最大の勢力である信長のもの、両方を欲しており、また信長は要望しても義昭の行動を強制する事がなかった(あるいはできなかった)からなのですが・・・端的に言って、それって室町幕府の制度と何が違うのか?というのが素人感想です。
 室町幕府というのは貴人であり、武士の中でほぼ唯一の公卿である将軍を守護大名をはじめとする武士たちが支える形態をとります。室町殿の領域は公家と同じように荘園単位で設定されて各地に点在しており、領域支配をとってはいません(この時代の支配様式はだいたいこんな感じ)
 年貢収入は自己の家政を賄う、つまりプライベートなものであり、たとえば天皇即位などの朝廷儀式を行ったり、室町殿の居住地であり政庁である「御所」を建設したりするのは、各地の守護大名献金させて(臨時課税みたいなもの)資金を調達しています。
 室町幕府最盛期には、その献金に応じる守護大名が二十人以上いたりして、つまり多くの武士が幕府財政を支えています。また許可証などは幕府でもらった後に、当事者に示して改めてその人自身の許可を求めたりしています。別段幕府に権限が一元化されていないのですね。
 そう考えると応仁の乱以降、幕府が衰退した理由は、一に将軍家が二つに分かれたこと。ニに幕府を軍事的、財政き手に支える大名を始めとする武士が、畿内近郊に限られる事があげられると思います。内部分裂と影響力の縮小ですね。つまり単純に支える武士の頭数が減っていても幕府の支配形態の基本的なところはまったく変わっていないように見えるわけで・・・あ、そうなんだ、と。
 別段信長が新しいわけでなく(信長以前にも細川京兆家や三好氏なども同じような感じでした)、また義昭がことさら無力であった訳ではなく、室町将軍、幕府というものはそういうものだったという事ではないか?と思うのです。
 もうちょっと足利義昭が何故、そこまで畿内周辺大名に反旗を翻されたのか、というところが知りたかったのですが、まだまだですかね。それは応仁の乱以来、足利将軍がその支持者を減らし続けている事と同じ理由ではないかと思うのですが(彼の兄、足利義輝はその任期の半分以上を京以外で過ごしていたと思います。彼を支持する大名が京を奪還する兵力を集められなかった)、どうなんでしょうね?
 六角氏や朝倉氏など、義輝が殺されて、出家していた義昭が脱出し流浪していた頃は援助していた大名が、信長主導で復帰する前後になって、彼を支持する事をやめています。信長に対するやっかみよりも、もうちょっと具体的な理由が欲しいですよね。