風邪だな

 熱はありません。咳もあんまり。しかし鼻水がヒドイ。これはアレですね、五月は布団をかぶるなんて、やってらっかー!!というぐらいの気温でしたが、ここ数日は布団がないと少し厳しいという涼しさになっているので、調整が追い付いていないという。
 先日冬の羽根布団から夏蒲団に変更したものですから、余計にですね・・・もうちょっと、何とかならんのかなぁ・・・
 昔の作家、内田百輭さんなんかは春はうららかだから一番好きだと宣うが、アタクシはこの気温差に追い付いていけないので、秋の方が好きです。ぐっすり眠りたい・・・
 そして、そんな話題とはまったく関係ない本を読みました。

朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー)

朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー)

 室町期に外交使節としてやってきた李氏朝鮮の役人が残した文章から起こした、当時の日本の描写ですかね。
 当時朝鮮半島から中国沿岸は、倭寇の略奪にあっており、それを戦闘と外交、時と場合によって制圧しようしていました。ところが日本側は中国や朝鮮と異なり中央集権体制にはなく、当時の室町殿足利義持は朝鮮の『侵略』は耳にしても倭寇が略奪行為を働いている事は、あんまり認識していないようなんですね。これ、もしかしたら「犯罪は国家が取り締まるもの」という大陸諸国の認識と「犯罪が発覚したら捕まえるけど、それ以外は自力救済だろ?」という日本側の認識の違いが根っこにあるのかなぁ、と思いました。
 義満の時代は国家交易をして儲けていたので倭寇の取り締まりが引き換え条件みたいなものだから、積極的にやっていたようですが、義持は明に臣従している訳じゃないんやー、という矜持というか誇りというか、たぶん貿易が独占されているのがイヤな勢力がいたからでしょうが、明への勘合貿易を取りやめていた時代でした。
 そのせいか、国際情報に疎いところがあって、朝鮮使節も遅々として進まない日本側の対応に苛立ったり、またもてなしてくれる人々に感心したり感謝したりしている様が解ります。
 面白いことに、国家成立期に外交が不安定であった李氏朝鮮は外国の文物に興味を持ち、日本に優れた面があるなら積極的に取り入れようとしています。ところが前期倭寇が下火になり朝鮮自身の国家も安定期になると、日本に使節でやってきた人々は、まったく日本の文物、風習を見下すようになります。
 人は自分に不足があると認識していると学ぼうとしますが、満足していると学ぶ姿勢が失われるという事なんですかね。
 あと、琉球に漂着した朝鮮の人々の記録によると当時の沖縄の諸島では稲作するところと、それができないところがあったり、稲の二毛作をしているところがあったり、米を基本通貨みたいに交換している様が観察されたようで、それも興味深いですね。