なるほど

 昨年から、つまり今年の大河ドラマ真田信繁を主人公にする(厳密に言うと、真田昌幸父子)という事が決定してから、その真田父子に関する最新研究が一般誌にも発表されるようになり、新たに知る事実が増えてきました。この本にも自分にとってはそんな発見がありました。

 彼自身が結構な艶福家であったと知りました。二十代で隠遁生活に入ってしまったけれども、九度山に父昌幸とともに追放されてから多くの子を得ています。まぁそういう年頃ですし。
 あと若年であり父や兄には石高で劣ると言っても豊臣大名として遇されていた事も知りました。おそらく豊臣政権としては北条の代わりに関東に入った徳川氏への因縁浅からぬ真田氏を優遇する事で、その牽制に用いようとしたのでしょう。意外な事に、兄信幸→信之も石田三成と親交がありました。
 そして父昌幸は美濃が西軍側であるという石田三成の情報を信じて西軍側についたようです。ちなみに関ヶ原の戦いで秀忠率いる徳川本隊は真田に足止めされたと言われますが、最近では秀忠軍の目的そのものが真田昌幸父子撃破にあったと言います。ただ東海道を豊臣恩顧の反三成派大名たちが家康の想定以上の速度で進撃、岐阜城までも落としてしまった為、急遽真田攻めを中止して西に向かう事を命じられたよう。つまり徳川本隊が遊んでしまったのは、家康の判断ミスです。まぁそんな事、想像できるとは思えませんが。
 また大坂の陣は家康は避けようとした様ですが、牢人の大軍を集めた豊臣方に対し強硬手段に訴えなければならなかった事、そして関ヶ原から二十年という歳月が世代交代を促し、実戦を経験していない兵卒、中級指揮官、そして大名たちばかりが参戦した事が、大坂方を攻めあぐねた理由のようです。布陣、戦闘の経過を見ると「アマチュアの軍隊」「不用意な戦争」という単語が頭を過ります。
 対して大坂方は就活中の牢人を集めた事により、少なくとも大名勢力よりも戦闘経験、あるいは戦闘訓練を豊富に持つ兵卒、部将が相対的に多かった事が善戦の原因になり、当時の認識としては冬の陣は徳川方劣勢、あるいは敗北という認識があったようです。
 それが何故城を丸裸にするような和睦を結んだのか。これには牢人が善戦しすぎた事に原因があるようです。豊臣方としては交渉を有利にする為の兵力増強であったのですが、冬の陣の戦況が有利に展開した為、より多くの牢人が勝ち馬に乗ろうと参集してしまったこと。そしてそんな彼らを食わせるだけの経済力は当時の豊臣家にはなかったこと。なので牢人の参集と解散を目論んで城を丸裸にしたのですが(明らかな不利ですから)ところが関ヶ原の合戦で大量に発生した行き場のない牢人たちは、僅かな勝利、一発逆転の賭けを求めて豊臣方首脳部の思惑を外れて、更に集まってしまいます。
 牢人たちの交戦要求、徳川側の疑心暗鬼により夏の陣は開戦。滅亡となります。ただやはり徳川方もやっぱりアマチュアの軍隊で、風聞により戦闘に参加していない部隊が崩壊する、なんて現象があちこちで起こり、その為に家康本陣が丸裸になるという事態が起きました。真田信繁はそこに勝機を見出したのですが、逆に豊臣方もアマチュアであり攻勢をかけている最中の不用意な秀頼馬印の後退により、味方が劣勢であると誤認。裏切りにより城に火の手があがり、戦線は浮き足立ちます。そこで家康は攻勢を命令、まぁ家康の粘り腰が勝利をつかんだとも言えますね。
 二十万規模の戦いでもなーんか心躍らないのは何故なのか。双方が素人の戦争だったからなんだなぁ、と改めて実感した次第。
 さて、この事実はどのようにドラマに反映されるのでしょうか?ちなみに著者の方はドラマに時代考証で参加しています。これによってドラマの時代考証というものがどの程度発言権があるものなのかも解りますね(にやり