読んだもの列挙

 できるかな?しょっぱなから書くこと多いかも。

戦国大名の「外交」 (講談社選書メチエ)

戦国大名の「外交」 (講談社選書メチエ)

 戦国大名はどのように外様、他国衆とお付き合いしていたか、という事なのですが、「外交」とついているように今日の外交を想像してはいけません。どちらかというと「おつきあい」という感じ。取次、指南と言われる大名家家中の宿老と大名側近がセットになり、宿老は相手に交渉継続の安心感を、側近は大名の意志を確実に知るという実理性を与えていたようです。
 そして戦国大名の戦争は国境の帰属問題がほとんどと言ってよく、境目の国衆・・・つまり小規模な大名たちがより大きな規模の大名のどちらにつくか、その話し合いが決着しなかった場合に武力行使となるケースばかりです。信長の戦争も畿内周辺以外の大半はそれ。畿内周辺は「天下人」室町将軍に従い秩序を守るべき空間ととらえられ、将軍の意志に従わない者を討伐するという意味での戦争でしたが、武田氏と毛利氏、上杉氏との戦争は境目紛争でした。
 特に武田氏とは、徳川氏との共闘部分もあり分別しないといけませんが、東濃の遠山氏の帰属問題が実は尾張半国支配でしかなかった織田信秀の時代からあったというから、へぇーですよ。そして信長の政策に同調して遠山氏を織田、武田両属状態する事に決定した斎藤道三に反発して息子の義龍が反旗を翻し、道三を殺した事が信長の美濃侵攻のきっかけだったんですからね。
 ちなみに、最初から信長は美濃を征服するつもりで侵攻したのではなく、自分に同調する親信長政権みたいなのをつくれば良かったのだと思います。彼は足利義昭を将軍にする為の上洛を望んでおり、その為の斎藤氏との和睦斡旋も義昭より行われていましたが、双方の不信感は強く、結局制服という形に落ち着いたのではないかと思います。
 全国制覇した豊臣政権、またその後の江戸幕府のシステムも基本的には、これの延長ですね。その意味では「外交」と言わざる得ない形態なのでしょう。
 あ、列挙できんかった・・・列挙はまた来週。土曜日はツクエアソビさんで、日曜日は名古屋コミティアでお会いしましょう!!