信長公記と山本勘助
いや、適当に読んでみたら、何となく論考みたいなものがまとまったなーっと。
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という事で『山本勘助』なる人物に仮託して高坂弾正父子とその側近が書いたらしい甲陽軍鑑の内容を調べる本なのですが、気になったのが武田家滅亡の原因と、上方武士に対する評価。
武田家滅亡が長篠の敗戦による多くの重臣たちの死亡と勝頼が側近偏重であった事に原因を求めていますが、上方武士は一の事を百と高言する連中ばかりだと、その口達者なところを責めています・・・ん?
最近、武田家滅亡の原因は、高天神城を見殺しにしてしまい、これによって武田家の相互防衛機構が不信感に満ち、瓦解したと思われるのですが、これは織田信長がそれを指示し、高天神城を救う事ができなかった勝頼の不甲斐なさを喧伝したから起こった現象ともいえる訳で、つまり甲陽軍鑑は武田家滅亡を見誤っていると言えるかも知れません。
とまぁ甲陽軍鑑の事は置いておいて、現代訳を読んだ信長公記なのですが、意外にも信長の視点が庶民のレベルから天皇家のレベルまで、かなり自在である事がうかがえました。
これは初めて知ったエピソードでしたが、信長が上京する道すがらの宿場で、いつも顔を見る乞食がいたそうです。被差別民はだいたいにおいて漂白の民であり、寺社の管轄下や市場でなければ、あんまり定住しません。どうもその乞食は体が弱く障害を持っており(だから乞食をして生活している訳ですが)、よそへ移動できない人のようでした。それを哀れに思った信長は自分で反物を二十反ほど調達し、宿場の人たちに半分の反物で小屋をつくってやり、残りの反物の代償として麦が獲れたら麦を、米が獲れたら米を、できる範囲で構わないから彼に与えてくれたら、喜ばしい、と与えます。
軍記ものでこういう描写って珍しいなぁ、と思うのです。
良く、信長の苛烈さ、非常識を強調する論調に逢いますけど、信長公記を読んでみると、太田牛一という人はそれほど信長が残酷とも苛烈とも思っていない様子です。朝倉義景、浅井久政、長政父子の頭蓋骨を加工して工芸品に、それを肴に酒宴を開いた様子など、うちうちの側近のみの出席のようですが、皆、溜飲を下げたみたいな事が書いてありますし、人質を皆殺しにする際にも、哀れだが仕方ないという信長の感想を入れています。
信長が人に裏切られた、だから彼の支配は過酷だったという言い分もあるようですが、ならば明智光秀が本能寺を起こした時、何故、長く信長に仕えた部将の誰ひとり光秀に加担しなかったのか説明できません。もちろん光秀個人の人望が思ったよりもなかったという事もあるかも知れませんが、長く信長に仕えた者ほど、光秀の誘いを断り、あるものは自害し、あるものは出家してしまいます。
これはどういう事なのか?そろそろ信長=苛烈な独裁者という図式は、物語の中に閉じ込めてしまいたい気分です。