今日はコレにします。

 先週は彼の付宿老であった山内一豊でしたが、今回はその上司だった男です。

豊臣秀次 (人物叢書)

豊臣秀次 (人物叢書)

 秀吉の甥として、少ない一門衆の一員として駆り出された男ですが、どうも一軍を率いる武将としての教育がなされていなかったような印象です。著名な失態、小牧長久手の戦いでの彼は、まだ十七歳。それで二万を超える大軍を指揮するなんて無謀ですね。恐らく実質的な指揮官は、発案者でもある池田恒興だと思うのですが、彼は戦死しています。まだまだ織田家中掌握に努めなければならない秀吉としては信長乳兄弟の家を処罰する事はできず、総大将に祭り上げられていた秀次がスケープゴートになったのではないでしょうか?
 その後もだいたいこの人は、叔父に命じられる事に、覚悟なしで振り回されている感じです。恐らく、もう一人の叔父秀長が存命ならば、徐々に仕事を覚え、それなりの業績を残せたかも知れません。残された発給文書が少なくて軍事的な功績も、統治能力も、よく解らない、もしくはおつきに全て任せていた可能性があるようです。とにかく、彼を親身に育てるという役柄の人物が見当たらない。
 性格に難があったのでしょうか?ただ文化的な関心は高く、関白となってから公家を動員しての文書編纂が唯一の事績といってもいいぐらい。
 ところがその能力と、秀頼誕生により彼の行く末に暗雲がかかります。そのストレスで問題を起こすというのも、なんか脆弱な感じ。結局秀吉との妥協はなされず、公家への影響力を警戒されて、一族皆殺しという陰惨で過酷な運命となります。
 結果として秀吉は、少なくとも公家に対する影響力を行使できる、また奥州の仕置きを徳川家康とともに行い、それなりの影響力を行使できたかも知れない一族を失ってしまいます。この流れに影響を与えているのが、石田三成浅野長政の、吏僚層の対立に秀次、家康とともに奥州仕置きを行った浅野長政が敗れている事だと思います。
 なーんか調べれば調べるほど、政権内部の百鬼夜行をかわす事ができなかった、未熟な男の末路という感じがしてきます。
 もしも叔父秀長が十年も存命していたら、彼と秀吉の間調整し、彼を豊臣政権公家担当、みたいな役柄に落とし込む事ができたかも知れません。
 武将としての教育や覚悟があまりない、それなのに巨大な機構の歯車として渡っていかなくてはならなくなった人の悲劇、ですかね。