肩こりはデフォです。

 土曜日は久しぶりにモルゲンステルンさんにお邪魔して、たぶんあかん?でも立つかも?てな気持ちでシノビガミを立卓しようとしたのですが、惜しくも成立ならず。
 その代わりにD&D5eで『殺戮のバルダーズゲート』というキャンペーンを一日で遊ぶという力技セッションに参加してきました。まぁ参加PLがほとんど訓練された(つまり老害)方ばかりだったので、その日のうちに終わらせる事ができました。DMも結構はしょってみえたしな。
 日曜日は久しぶりに3.5e全員そろってセッション。流石にLv7になるとなかなか殺せない・・・畜生。まぁ『蛇人間の城塞』は、これからが本番ですからネ。まだ本館三階を制覇したところだし、この城塞は本館は遊び場みたいなもんだからな。
 つぎやるのが六月になってしまいましたが、また全員集まれるといいなぁ。
 そして読み終ったもの。

織田信長 (ちくま新書)

織田信長 (ちくま新書)

 世の中には織田信長に関するものがいっぱいありますが、この方は戦国期の宗教関係を研究されている方なので違った視点で信長を見ているだろうと考えて手に取りました。
 『革新的な人物』として評される信長ですが実際は、非常に常識人であり、行動様式も室町期の人々と大して変わりません。武力による全国統一を目指した訳ではなく、『天下布武』とは当時『天下』と呼ばれた首都圏である畿内を平定するというスローガンであり、京の足利将軍の支配を助けるというものでした。当然敵対する相手は足利義昭とは対立する足利氏を擁立する三好三人衆であり、本願寺もそれと結んでいます。朝倉、浅井は織田の成功をねたんで反抗。足利義昭は、『常識が足らない』とその政策を束縛してくる信長の対立して、武田、毛利は領域の境目争論から発展した戦争と解釈できる、というもの。
 武田氏滅亡は最初から織田信長が狙ったものではなく、高天神城を見捨てたという評判が(これは信長が狙って立てた)武田氏領国支配を瓦解させ、ついに滅亡になったという事です。
 一向一揆や城内の非戦闘員を皆殺しにしてしまう戦法も、実は希少ながら他にも当時例があり(本に挙げられていたのは伊勢宗瑞の伊豆乱入)、それ自体が当時の人々から一般的な世論として非難された形跡はないようです。
 信長が室町幕府の支配体制を克服しようとするのは、代わりに立てる足利氏を持たなかった為に、三好長慶の例に習い、朝廷の官職を得て権威を得ようとする段階になってからで、かなり後になってからです。
 つまり、何が言いたいのかというと信長という人物は常識人であって、トリッキーな人物ではなかったということ。確かに若い頃は傾奇者のように、だらしなく、礼儀作法もうっちゃった感じで、恐らくこれは家督争いをする兄弟がおり、自分が親から顧みられていないという反抗のなせる技だったかもしれません。しかし近習の馬を召し上げようとして拒まれ、それを恨みに持ったところ、その近習の親が割腹自殺する事件をおきます。この割腹した者が平手政秀、つまり彼の守り役であり、四人つけられた後見人の中で一番親身に信長に接しただろう人物でした。林はこの後敵対していますし、残りの二人はほとんど記録に残っていません。つまり自分を支えるほとんど唯一と言っていい有力者を自分の我がままで死なせた事になります。
 恐らくこれが信長の目を覚まさせた事件ではなかろうかと著者をおっしゃいます。だからこそ足利義昭への諫言で、無理やり馬を欲しがるな。必要ならば自分がいくらでも用立てると書いていると。
 また佐久間信盛父子を追放する事になった時も、彼らの評判が彼らの部下の間で悪い事、そして放逐されるか、手柄を立てるか選べと言われ、出奔を選んだのは佐久間信盛り父子であり、信長自身の命令ではありませんでした。
 高天神城の攻略でも降伏を拒否するように提案したのは彼ですが、しかし実際に戦う徳川家中を考え、最終的な判断を徳川家中にゆだねています。また武田氏との戦いはあくまでも徳川軍の戦いであり、彼らを全面に押し立てています。長篠の戦も当時の判断では、徳川軍対武田軍の戦いであり織田は援軍に過ぎません。
 世間の評価を気にし、その効果を最大限に利用し勢力を拡張したのが織田信長という人物でした。だから恐らく四国攻めも長宗我部氏ではなく、三好の残党や阿波国人を攻める為の物だったと思います。
 織田信長像は色々と訂正されるべきところがいっぱいありますね。