長篠合戦のこと

 だいたい現在のところ、これが決定版かも知れません。

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

 まず第一に鉄砲の装備率ですが、織田・徳川連合軍も武田軍も、そんなに遜色はないということ。強いて言うならば、流通、生産の面で武田軍が鉄砲の鉛弾や火薬の調達において劣っていた事でしょうか。つまり織田・徳川勢の方がより多くの弾を放つことができたという事。
 次の騎馬隊の件ですが、当時の日本馬は体高こそ低いものの、約九十キロのものを運搬したり、農耕をするように調教されており、現代の放牧、乗馬用のポニーとはよほど筋骨が異なるということ、なので、訓練された馬なら乗馬突撃も可能。蹄鉄がないけれども馬履を履かせているのである程度の距離までなら問題なく走行できるそうです。
 ただ戦列を組んだ槍足軽に突撃するという事はしませんでした。当たり前か。戦列が崩れたところに突撃し、立て直す暇を与えず止めを刺すというのが基本的で、追撃戦以外にも騎馬戦は行われたであろうと。
 連呉川沿いにつくられた織田・徳川の陣地は陣城と呼べるほど堅固なものではなかったけれども、地形的に崖のような前面を持っていたので、武田側すると城攻めような感覚があったこと。
 そして武田軍の猛烈な功名心。これは軍律で定められており、また戦場で手柄を取る事は古来からの武士のアイデンティテイでもあったこと。まぁこれは織田家でも同じ事が言えますが。
 恐らく最大の要因は、武田方の情報収集力の不足ですかね。織田方は自己の戦力を隠蔽する努力をしており、武田勝頼はどうも、三方が原の時のように畿内から離れられない織田の援軍は数千程度で、徳川軍と戦うならば十分すぎる勝機があると確信していたと。
 そして武田の有力武将が戦死していくのは、突撃を繰り返していた時ではなく、最も危険な撤退時で、ここを織田軍に襲撃された為、大打撃を受けた、そんなところでしょうか?
 日本馬も戦国時代は鍛えられていたので軍馬として問題なく使用できたであろうというのは新しい情報です。ヨーロッパの宣教師たちが見たのは西国の、あまり馬を熱心に育てない地域の日本馬たちであって、騎馬の本場である関東周辺では十分軍馬として使用できたというのは、まぁ鎌倉初期まで武士は弓騎兵だったんですから、当たり前ですかね?