歴史ネタでよければ

 以前にも読んだ『浅野長政とその時代』って本を読み返したのですが、十数年の間に結構自分の読み込みが進んだり、更新されたりして、ちょっとこれは違うんぢゃないか?と思う部分があったりして、それはそれとして興味深かったのですが、今日書くのは単なる自分の考察、推測です。
 浅野長政という人は秀吉の妻、寧々の妹の夫、つまり相婿な訳なのですが、異父弟である秀長に比べると、その重要度は格段に下がります。本人の資質もあるかも知れませんが、浅野長政は浅野家の養子として迎えられた人物ですが、本来浅野家を継ぐのは姉寧々の婿になる人物の予定でした。ところが寧々は恋愛で(野合というけど)で侍身分ではない秀吉を夫に選んだ為、養母は怒り沸騰。あ、寧々姉妹も養子でした。そんなこんなで恐らく姻戚といっても最初は冷たい関係だったのだと思います。
 翻って秀長は最初期から秀吉を支えたとみられ、文献に登場するのは、確か近江時代からだと思うのですが、その頃にすでに秀吉配下では最大の禄高だったと思うので、血縁だからといって最初からそんな高禄を与える事はできませんから、それなりに活躍していたと思われます。
 さて、豊臣家というのは秀吉、秀長、そして寧々によるトライアングルで構成されていたと思われます。姉とその夫、妹とその夫、寧々の兄妹にしても武功で目立った存在はいません。他の親族の陰が薄いのです。その為、豊臣恩顧の武将、大名たちは、だいたいこの三人の帰属意識を持っていたと思われます。浅野長政の影もその点では恩顧武将と同レベルです。
 この豊臣家ですが秀吉夫妻には子がなく、秀長には確か娘がいたぐらいで子宝に恵まれません。特に秀吉は記録にあるだけでも十数人と関係を結んだとみられるのに、実子を持った形跡がありません。そこから彼には子種がなかったと大胆な仮説を立てる方もいらっしゃいます。では鶴松と秀頼はどういう存在なのか?
 ここで豊臣トライアングルは浅井長政お市の長女茶々と交渉する事になります。茶々は信長の姪にあたりますが、浅井長政の娘であり柴田勝家の義理の娘になり、つまり血統は申し分なくても豊臣家にとっては敵の家系に属する訳で、そのままでは尼にでもなるしかない、一生浮かび上がれない存在でした。その彼女に豊臣家の跡継ぎを生まないか?と持ちかけたのです。
 それまで秀吉は信長の子息を養子に迎えたりしていましたが、自分が天下人になった場合、織田家とのつながりは必要ですが、織田家そのものを連想させる存在を後継者にする事は危険です。では子種がない彼の子をどうつくるのか?ここで加持祈祷に関わる被差別民の在野の陰陽師たちが関係したといいます。まぁ色々含ませて茶々に妊娠してもらったという事です。見返りは豊臣家身内としての身分を姉妹ともども得るというもの。それによって妹たちはそれなりの結婚をし、財産を持つ侍身分の女として踏みとどまります。
 ここまではトライアングル承知の出来事でした。恐らく秀吉亡きあと、中継ぎで秀長が政権首班になり、成人したら鶴松が関白になる、という構想でしょうか?ところが最初秀長が、ついで鶴松が亡くなり、この構想は一旦白紙になってしまいます。変わって自分の血縁を重視して、最年長の甥秀次を後継者に、秀秋を養子に迎えます。恐らく秀次に秀長の役割を期待したのでしょう。秀長と親しかった有力大名や恩顧の武将は引き続き秀次とも親しく関わります。それを考えると信雄、家康連合軍長久手で敗れた事は、秀次の責任とは考えられていなかったみたいです。
 ところがこれで困るのは茶々・・・淀殿です。鶴松存命なら後継者の母として、正妻寧々につぐ地位を保てましたが、今となっては並み居る側室の一人でしかない。再び浮かび上がるにはやはり子を得る他ない。秀頼の誕生は恐らく豊臣家の預かり知るところではなかったでしょう。正式な後継者は秀次に決定していたのですから。
 この秀頼を秀吉が認めなければ、淀殿を処分して終わりだったのでしょうが、秀吉は秀頼を選択しました。結果的にまずい選択でした。有力大名や恩顧武将とのつながりを持ち正式な後継者になっていた秀次を否定する事になり、恩顧武将の支持を失いかねないのですから。
 恐らくあくまで秀吉の意志に従い、その代弁者となった三成と、秀次、秀保(秀長養子)を処分された事にわだかまりを持つ多くの恩顧武将との軋轢が関ヶ原の戦いへの伏線になったのではないでしょうか?
 ここでもしも秀長が生きていたら、秀頼を秀次養子にさせ、その継承問題を棚上げ、あるいは先送りにした可能性があります。関係調整こそが秀長の特技だったので。
 しかしそこに浅野長政の影はありません。相婿でありながら豊臣家の身内ではなかったのが、浅野長政という男だったのかなーっと、そう思います。だから徳川家の支配でも大大名として存続できたのかも知れませんが。
 まぁそういう推測もあるよ、という程度で。