これは興味深い

 こんな本を読んだデス。

北条氏権力と都市鎌倉

北条氏権力と都市鎌倉

 題名だけ見ると堅苦しくて、解りにくい鎌倉時代の『支配者』北条氏と都市としての鎌倉の事を書いてあると思うぢゃないですか。間違いではないですけど、なかなかこれが面白かった。
 どういう点で面白いのかというと、『期せずして北条氏は鎌倉幕府の首脳幹部になってしまったのではないか』という印象があるからです。
 幕府開府当時、つまり源頼朝の時代は頼朝個人との主従関係が重視され、その家政機関が拡大された『幕府』と言われるものは軽視される傾向にありました。頼朝存命の頃は、彼との個人的なつながりを重視し、彼が命じる幕府の式典や、神社仏閣の儀式にも積極的に参加しました。
 ところが彼の死後、地方の有力御家人ほど、そういう負担を嫌がるようになります。まぁ頼朝の子孫が絶えた後、藤原将軍と個人的につながりを持ち、権威権力の源泉とする御家人もいますが、一方で源氏の外戚であり承久の乱を勝ち抜いた北条義時の子孫が主催する幕府とのつながりを重視する御家人もおり、それらから距離を置く御家人もいるといった感じ。藤原将軍は政変によって否定され、また宮将軍も形骸化されますので、将軍とのつながりは重要ではなくなります。しかし幕府としての体裁を守ろうとすると儀礼は欠かせなくなり、しかし北条氏とのつながりの薄いものは、有力御家人ほど鎌倉から遠ざかる傾向にあります。結果として都市鎌倉で幕府の政務を司るのは北条氏とその一派という事になります。
 また北条の中でも『専制』といわれた得宗、つまり本家ですが圧倒的な力を備えていた訳ではなく、また一族に対して完全な統制力を持っていた訳ではないようです。危機的な状況になったのは意外にも得宗体制が完成されたといわれる時頼の時のようです。でもまぁ考えてみれば当たり前で、祖父泰時の跡継ぎである父時氏は早世。その後継者である兄経時も早死に。本来後継者でなかった時頼には政治的な後ろ盾や権威、正統性が乏しかったのです。そこで六波羅の重鎮であった祖父泰時の弟重時を連署に迎え入れて、祖父泰時の時のような(この時は泰時の叔父時房を連署に迎えた)体制をつくらなければなりませんでした。まぁ二十歳そこそこの時頼に政務経験なんてありませんから、結局経験豊かな助言者が必要なんですけど。
 それで重時の子孫に主導権を奪われそうになり、重時とその長男で後継者の長時が亡くなった時に、重時の弟で、母親の謀反騒ぎで劣勢だった政村と組んでようやく息子時宗を政務につかせる事ができたんですからね。
 その後も得宗家は周囲が納得する理由がなければ、領地を増やす事はなく、得宗に匹敵する家として、金沢家や大仏家、また先述の重時子孫の極楽寺→赤橋家などがありました。言うなれば北条氏とその一門、縁戚を中心とした族一揆のようなものだったと。
 こうなると中央の厄介ごとを引き受けていた北条氏=鎌倉幕府を討幕する原因は、北条の専制以外にあったのかも知れません。その件については、またいずれ・・・そういうネタがあったら(え