今日は暖かいよりも暑い?
予報通りなら名古屋は最高気温19℃ぐらいになるとかならんとか。四年ぶりの暖冬になるらしいこの冬、そうか防寒の売れ行きはこれまでなのか・・・のぉ?といっても一着単価が下がった商品が動いているので、そんなに旨味を感じる訳でもないですがね。単純な価格上昇ではなく、皆が高価なものを買ってもいいかな?という景気になって欲しいですよ、はい。
それはともかく、読んだもの。
- 作者: 渡邊大門
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
- 発売日: 2012/09/22
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
ぶっちゃけて言えば、豊臣家が滅亡したのは徳川家康の悪意によるものではなく、豊臣家それ自身の自尊心故なところが大きいよ、という話。
関ヶ原の合戦以後、家康は実に繊細な心遣いで権力者としての立場を固めていきます。具体的に言えば、征夷大将軍に任じられ、それを息子秀忠に譲って世襲する事を明確にし、また豊臣家に関白位を渡さない方針が調停で確定するまで、豊臣家の優位を認め、それを儀礼の場で少しづつ、少しづつ地位の逆転をはかっていったと。
その立場を豊臣家が受け入れ、人質を徳川家に差し出し、そして家康の孫千姫との間に後継者をいち早く儲けていれば、徳川家親戚という事で大名としての地位を保てたかも知れませんが、危機感を抱いた豊臣家が浪人を集め始めた頃からきな臭くなり、例の鐘銘事件を口実に大坂冬の陣が始まります。
緒戦はともかくほぼ全ての大名が参陣した徳川方の圧倒的優勢は変わらず、和睦で合戦は終了するのですが、考えてみれば勝利した側の条件としては寛大なんですよ。勝った側は人質をとるのが当たり前なのにとっていない。また大坂から望みの地への転封というのもかなりいい条件です。まぁ肝は浪人の追放であり、戦乱が終息した日本の統治者として家康は、騒乱の下となる浪人の根絶を目指していましたからネ。
しかし結局大坂城の堀などを潰す、その城塞機能の低下で手を打ちました。そうすれば浪人を抱え続ける事は難しいと踏んだのですが、却って浪人の集める始末。失った城塞機能の代わりに兵力を求めたという事でしょうか。
また豊臣家内部も和睦派、中間派、抗戦派と分かれて統制がとれておらず、戦犯と言われる大野治長は実は和睦派で、徹底抗戦派の弟治房の暴走を止められなかったといいます。
現状認識ができていれば、関ヶ原の合戦で痛い目をみた、あるいは過分の恩賞をもらった『豊臣恩顧』の大名たちが、いまさら博打を打つ筈もなく、結果は解りそうなものですが、それでも家康を信じきれない、過去の栄光を信じたところが滅亡の原因だったかも知れません。
徳川方の立場に立てば戦えば必ず勝つだろうが、与える恩賞地は関ヶ原の合戦のようにはいかず、持ち出し分が多くなり諸大名に不満が残る結果になるのは解っているので、なるべく戦いは避けたかったのではないかといいます。
そんな感じも納得できるなぁ。