桶狭間考察
と言いながら、読んだのは勝った方ではなく殺された方の評伝ですが。
- 作者: 有光友學
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2008/07/01
- メディア: 単行本
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激怒した北条側と十年におよぶ戦争になるのもこのせい。しかし三国同盟の前提条件もこのせいと言えるかも。
内政に関しては守護大名から発展したせいか、過渡的というべきで、既存権益を守り、そこから利益を得る感じ。検地も一元支配の貫徹というより年貢量の確認という意味合いが強いですが、中央や他の領主の権威を否定し、今川氏の法的支配のみを強要した点は戦国大名といえます。
さて、桶狭間の戦いなんですが、この本の著者は織田が今川本隊の側面を突いた戦いで、その為に一戦で総大将討死になったのではないかといいます。今川軍の侵攻進路は大高城にあったようで、織田方の付城をその日のうちに落としていますが、今川方のもう一つの拠点鳴海城の織田方付城はそのままになっています。大高と鳴海は扇川でさえぎられており、今川軍は地図で見ると、この扇川の存在と、まさか鳴海城をそのままにして突っ込んではこないだろうという考えから側面が無防備だったのではないかと思います。
信長本軍との決戦よりも、次の日の予定が弥富水軍との合流(知多じゃなかった)でどうも熱田か津島という織田弾正忠家の財力の源泉である町を攻撃するみたいだったようです。
しかし弥富って津島のすぐ南じゃん。ここまで今川の調略が進んでいたのか。そりゃ気安く侵攻するわな。
また侵攻理由として織田信秀に没落させられた末弟が継いだ那古野今川氏の領域を確保する事があげられています。尾張心臓部への領域拡大を狙ったというべきだと思います。
今川義元は調略を含め入念に準備をし、戦わずして勝つ体制を整えて進撃したと理解していたのでしょうが、こういうと何ですけど織田信長という破格の山師(勝ったから戦上手と言われる)を相手に読み間違えた、というべきかもしれません。