小山田一族

 こんなん読みました。

 地元の人すら「こんな武将、良く研究しますね」とさえ言われるほど人気がないらしいです。まぁ確かに武田氏滅亡の瞬間に裏切り、それを織田家に疎まれて処刑されてしまった一族ですからネ。
 系譜としては秩父平氏の小山田氏から説き起こされていますが、南北朝期から戦国時代に活動する小山田氏とは別系統らしいです。秩父平氏の小山田氏は北条氏に滅ぼされましたし。
 戦国期に活躍する小山田氏についても系譜は謎で、その理由が信有という実名を使う当主が三代も続いているという事もあります。官途名や仮名でしか区別できないから、ややこしい。これは歴代の継承が結構不安定なので、先代の実名を継承する事により、少しでも権威を引き継ごうとしたのかもしれません。
 甲斐都留郡をほぼ一円支配した国人領主というか国衆という事ですが、これは戦国大名に完全に被官化した存在ではなく、服属した子会社みたいな感じで、内部の裁判権は保持しています。ただ小山田被官がトラブルを起こした場合、被害を受けた側は往々にして上級権力の武田氏に直接訴えかけ、武田氏は小山田氏に善処するよう、それができないようなら武田氏が行う旨を通知しています。しかしそれも、それで武田氏側が小山田氏の支配権を積極的に取り込むという訳ではなく、そのあたりは封建的な感触が残ります。
 対外的には譜代家老衆とみなされますが、本人の感覚では半独立した存在と思っていたのではないでしょうか。国衆にとって戦国大名は安全保障組織でした。他の強力な戦国大名から攻められた場合、国衆の戦力では対抗できない為、盟主たる戦国大名から援軍、援護を得る。かわりに、ほかの地域での紛争、あるいは戦争に戦力を提供する。
 勝頼期の高天神城落城によって武田氏はその安全保障機構としての能力不全が明確になり、木曽氏や穴山氏は離反を画策します。自分たちの領国領民を守る当然の選択という訳ですが、小山田氏は武田氏本家に近く、そのあたり工作をすることもなく、土壇場になっての『裏切り』であったために織田信長に処断されたのでしょう。信長は裏切りや不名誉な行動というのを潔癖なまでに嫌った男です。武田との戦争も信玄が一方的に破棄した経緯もあり、こういう行動をとった相手に対して苛烈な処分をするのが信長の常でした。その上での裏切り行為は、やはり滅亡は免れない。
 そして土壇場の裏切りであったらからこそ、同情もほとんどなく、江戸時代を通じて遺族がかしこに仕官していても、なかなか祖先称揚にならなかったのではないでしょうかね。記録自体個人の持ち物で原文が公開されていないので、これからの公開、研究がまたれるところです。