三好長慶という男

 そろそろ一次資料のみで論じられる本が出てきてなにより。

 プレ織田政権ともいわれる三好政権ですが、足利幕府の枠組みから逸脱する事はなかったと言われていたのですが、この本を読むと違うようです。
 もともと管領細川晴元の家臣ですが、その主に父親をぶっ殺されているという複雑さ。しかし当時十代の少年ではいかんともしがたく、俗にいう『雌伏』という事になるのですが、そう簡単な話でもないようです。
 長慶の曽祖父と父が細川氏や幕府で重んじられたのは、その軍事力と軍事的才幹ゆえでした。長慶も当然それを期待されているのですが、幕府内部の権力争いや三好氏内部の主導権争いが絡み、そんな事も言われなくなっていきます。
 問題なのは、細川晴元は元より、足利将軍である義輝も世評の支持を失っているということ。京の治安を守り、朝廷の儀礼に金を出す義務を負っている幕府とその首領が、それを果たせず権力争いばかりしているのですから、当然ですね。
 三好氏はその軍事力ゆえに、さらに国人ではなく在郷の村落から意見を徴し裁判を結審するという方法で、江戸時代には村の『神』として祭られるほどの支持を獲得します。
 しかし元々出自があいまいな一族であり(信濃の小笠原氏の分流と言われているけれども、根拠が薄いらしい)、守護代から数年で京や畿内の政治をつかさどる地位についたので、家格の方も急激に上昇させなければならなかった。その為に地方大名から不快感を表されるも、反三好包囲網に成長しなかったのは、あまりにも足利義輝に人気がなかったせいでした。
 まぁ京にいないし、和睦も自分の方から破るし、結局それも負けちゃうし、幕臣にも見捨てられる事の方が多いし・・・実質滅亡と変わらなくない?
 三好政権が短期間で滅亡してしまったのは、織田政権と比較して、その経済力が問題なのか、とも思ったのですが、当時、彼が根拠地にしていた畿内の都市を直接把握するという方法をとっていますし(堺にも代官を派遣し、評議会である会合衆には自身の支持派閥を組織していたみたい)、もともとの本拠地である阿波は当時の日本での藍栽培を独占していました。藍染の染料と木材が主な財源で、これが儲かる。
 米作や伊勢湾岸水運で儲ける織田家と遜色がない。また松永久秀三好長慶に取り立てられた摂津の小国人であり、長慶、義興父子には畏敬の念を持っていたようです。また長慶生前の久秀は忠実な部下であり、重要な案件は必ず長慶の決裁を仰いでいます。
 著者が判断するには、後継者の早死に、そして長慶本人の死があったのではないかといいます。当時長慶は後継者義興に家督を譲っており、権限、そして地位、名誉も譲っていました。ところが義興の急死により事態は急変。長慶に他に息子はおらず、急遽養子に迎えられたのは末弟十河一存の息子義継でした。次弟実休の息子を差し置いての措置で、これは義継の母が九条家の養女であった事に理由があるだろうと推測しています。
 三好氏は実力では足利氏を抜き去りました。そして家格の上でも足利将軍をこえなければならない。血筋の上で足利将軍に匹敵する事が必要と判断したのでしょう。
 しかし長慶の死で義継は十五歳で家督を継ぎます。そして長慶の政治課題であった足利将軍の克服を、最も過激な方法、義輝抹殺で果たそうとしますが、殺した後の展望を持っていなかったようです。逃れた足利義昭の赦免を言ったり、かと思ったら十四代将軍に足利義栄という敗北した『堺幕府』系統の公方を引っ張ってきたり。そうなると京の幕臣や、そのパイプ役を担ってきた松永久秀との関係も怪しくなり、ついに三好氏内部の内乱となります。
 信長は、ちょうどその内乱に乗じた格好になり、内乱に劣勢となった松永久秀と同盟して、一気に畿内を制圧します。
 そしてその後十年にも及ぶ三好氏、そしてそれと所縁が深い同盟者でもあった本願寺との戦いに突入していく訳で、なかなか興味深い話です。
 でも足利将軍って、ほんと滅亡といってもいい状態だったんだなぁ・・・はい・・・それも本人の恣意性でね。まぁ仕方ないのかねぇ・・・