徳川氏研究で重要

 そんな論文集を読んでみました。

松平家忠日記と戦国社会

松平家忠日記と戦国社会

 徳川氏は政権を取った為に、たくさんの野史、軍記物、公式記録がありますが、プロパガンダに染まってしまったものが多いので、その実像を探るのがなかなか骨の折れる作業です。
 近年は色々と研究が進み、だいたいこんなところだろうという室町期の松平氏の活動が判明してきているのですが、今度は徳川家康期の事を調べるのに格好の材料である家忠日記の研究を読んでみました。
 松平家忠は傍系の深溝松平氏の当主で、一族一揆の結束力を武器に戦国期を戦った松平=徳川氏としては最も信頼できる戦力でした。とはいっても家康権力の中枢にはおらず、彼自身も酒井忠次の指揮下で軍事行動に従事しています。
 しかし日記という私的な文章のせいか、相手への呼称が変化していくのが面白く、家康家臣でありながら日記の上では武田氏との攻防が勝利に終わるまで、家康のことを『家康』と呼んでいます。これは一族一揆として家臣ではなく同盟者であるという意識が強かったからでしょう。『殿様』と呼ぶのは、それ以降。
 他には武田氏との戦いで次第に家康が織田政権と対等同盟ではなく、隷下に従属していく、あるいは支援を受けて武田氏と戦っていく状況を反映してか、信長の呼称が『信長様』『上様』へと変化していきます。信長自身が朝廷で高位に上り、そういう尊称を受ける身になったこと、公儀権力の主体と見なされてきた事もあるでしょうが、やはり織田権力下に徳川氏が取り込まれていったと見るべきでしょうね。
 しかしそれも本能寺の変でまた変化していきますが、織田政権下である事を標榜しながら織田家臣河尻氏を裏切るように旧武田家臣の取り込みに走るなど、強かというか信用できないというか、そんな徳川氏の動きも面白いのですが、あくまでも織田政権の主催者、秀吉とは協力関係であるとしているところ。
なので柴田勝家との戦いでも秀吉=織田信雄側支持をしています。
 しかし小牧・長久手の戦いとなると信雄支持を積極的に行い秀吉と対立していきます。おそらくこれは信濃の諸勢力への秀吉側の影響力、秀吉と同盟を組んだ上杉氏との動きを睨んでの事なんでしょうね。
 その秀吉の呼称も豊臣政権に組み込まれた時点で、『秀吉様』『関白様』『太閤様』になっていきます。その時、その時の徳川家の立場を明確に表して面白いですネ。