眠り続けると起きられない

 なんて危険な季節だ!!まあちゃんと起きて店に出てきているのですが。
 HPのトップにもありますが、今年最後のイベント参加。東京の文学フリマに参加します。参加サークルがすんげい増えたなぁ。同じホールの一階と二階占拠するんだ。設営大変だなぁ(心配するとこはそこか?
 そんな訳で(どんな訳だ?)読み終えたもの。

 資料の読み込み結果、『ここはこうなんぢゃね?』という事が書いてある本です。源氏将軍は思った以上にカリスマがなく、源頼朝個人のカリスマと人脈をつかった運営で、頼朝自身、息子頼家の権威付けを頑張ったけど成果が出る前に急死してしまった、とか。頼朝の行動の意味とか、そんな事を論じています。面白いけど、目が覚めるようなナニかを期待してはいけませんよ?
 スラスラ読めたしなぁ。
 どっちかというとこっちの方がセンセーショナル?
信長政権 ---本能寺の変にその正体を見る (河出ブックス)

信長政権 ---本能寺の変にその正体を見る (河出ブックス)

 著者は専門が南北朝で、今までの著書は播磨、備前あたりの地域に関するものがメインで、信長研究とかはどっちかというと専門外。しかしだからこそ今までの説で『これ、おかしくね?』というところが一杯あるらしい。
 特に軍記ものや編纂もののみにしか記述されていない、つまり二次資料のみを建てられた論とかが結構あって、それを削り落としていくと、
 1:明智光秀の出自は不明。美濃土岐氏の傍流、奉公衆明智氏の一族だと言われていましたが、どうも確定できないそうで、足利義昭明智光秀が仕えた、信長との橋渡しになったという説はなさそうです。それよりも光秀は最初から信長に仕えており、足利義昭の付け家老的な役割を果たすようになってから頭角を現したので、足利義昭に最初から仕えていたように見えるのではないか?
 ちなみに足利義昭家臣説も細川家の史書が軍記ものから引っ張ってきたものらしく、信用できないそうです。
 2:明智光秀織田信長の間で、少なくとも端から見える不和、不安要素はなかった。
 四国政策の変換が光秀を窮地に陥れた、というのは『元親記』という二次資料にしかないそうです。また婚姻関係が武将の立場に影響するというのは、戦国時代ではあんまりなく、家臣と長宗我部氏が婚姻関係でも明智光秀自身とはそれほど判断材料にはならなかったのではないか。
 それに、本能寺の変直前で織田家と長宗我部氏が対立関係になったとは言えないそうで、信孝の四国出兵計画の相手は阿波、讃岐の国人衆だったようです。まぁ考えてみれば『四国を制圧しつつある』大名を攻めるには一万何千は心もとない兵力だよね。
 中央と長宗我部氏が決裂したのは秀吉時代に入ってかららしいです。
 3:明智光秀の教養は一般的な戦国武将レベルであった。彼個人の句だと確定できるのは、例の愛宕連歌で詠んだ発句ぐらいで、友人で姻戚の細川藤孝が一級文化人だからといって彼もそうだという証拠はないそうです。そして連歌の発句も研究者が深読みしすぎている、と。
 光秀と信長は性格的にも良く似ていたようで、信長自身は深く光秀を信頼していたようです。しかし著者が『例えるならブラック企業』と言う織田信長家中の職場環境は、有能であればあるほど忙しく、使えないと判断されるとすっぱり切り捨てられるという緊張感の耐えないものでした。
 まさに源頼朝がそうだったように、創業者のカリスマによって成り立つ組織が織田政権であり、光秀の心中に『信長を消せば楽になるし、全てが手に入る』という魔が差しても仕方なかったのかもしれません。
 まぁ著者は記録に残っていないので光秀が本能寺の変を起こした本当の理由は不明、としていますが。黒幕説を全て論破した後にそんな感じで書かれるから、まぁそう思っているんだろうなぁ、と思いました。
 とはいえ、起業して忙しい自営業とかなんて、正に『ブラックな』職場環境ですが、やっている本人たちは結構楽しくてやっている場合が多く、ついていけない人たちは退職していくという感じだと思います。日曜日で川崎の知人に、今の職場がそんな感じ、と嘆かれた。
 まぁ起業したばかりの組織というのは、そういうものなんでしょうね。信長政権には理念はないて言われるけど、理念なんて、後からついてくるものなんですよ。必要だから、できるからやる。それがそもそもの始まりだと思いますね。なんにせよ。
 スカイプで昨夜話し合っていた内容も思い出しながら、そんな事を考えました。