徳川プロパガンダ

 最近『徳川史観』のメッキが徐々に学会ではがれかけているようです。内容がもうちょっと欲しいと思うのですけど、これが一つの成果ということで。

消された秀吉の真実―徳川史観を越えて

消された秀吉の真実―徳川史観を越えて

 題名は衝撃的ですが、内容的にはまず第一に『小牧・長久手の戦い』で秀吉軍が敗北した戦い。実は尾張三河国境の要衝、岩崎城を巡る攻防戦で、まずここが秀吉軍によって陥落していること。その後、急を聞いて小牧山から全力出撃した信雄・家康連合軍が秀吉軍の後備を長久手で捕捉、撃破したこと。
 この敗戦により秀吉は家康に軍事的コンプレックスを持ったというのは、嘘で、『小牧・長久手の戦い』自体も信雄・家康側が秀吉に人質を差し出す形で決着がついたこと。当時の慣習で敗北した側が人質を差し出す事はあっても勝者が人質を出す事はなかったので、局地的に連合軍側が勝利したとしても、大局的には劣勢であったこと。ってとこですかね。
 第二に家康は最終的に源氏として征夷大将軍につきますが、最初から狙っていた訳ではなく、祖父清康が新田源氏を称したのを継承し私称していたこと、朝廷に申請したけれども受理されず、藤原氏を称し、関東て転封にともない源頼朝にあやかる為に源氏を称し、そして秀吉が豊臣氏となり諸大名に羽柴姓とともに本姓豊臣を贈っているので、豊臣氏になったと。その後秀吉の死後に源氏に戻したようです。
 家康自身が豊臣家康と署名した文章は残っていませんが(家光によって隠滅させられたらしい)、息子の豊臣秀忠という署名は残っています。賜姓は功績をあげた一族に与えられ、さもなくば『一代に限る』と功績をあげた個人に与えられるものです。秀忠は秀吉養子になった経験がありますが、父親を差し置いて豊臣氏の名乗りを得るでしょうか?
 また家康への呼びかけで『羽柴江戸大納言』という呼称が古文書に残っており、家康に豊臣氏の名乗りが贈られた事は確実だと思われます。
 つまり家康は他の大名が豊臣になっても源氏のままで秀吉は家康を自分の権威の下に従える事はできず、関白秀吉、将軍家康なーんて二重政権の論拠にはならないらしい。
 第三に秀吉の甥、秀次は『殺生関白』とか言われて謀反の罪で高野山に追放され切腹させられたといいますが、どうもこれは秀次が抗議もこめて自主的にやったらしいです。
 どうも『小牧・長久手の戦い』の失敗が大きく響き、低く評価されがちな秀次くんですが、豊臣政権下での役割は決して低くなく、領地は近江尾張を中心に東海道の要衝をおさえ、東国に対しては家康とともに諸大名を指導する立場にあります。
 もしも彼が死ななければ、家康に対する声望があそこまで高まったかどうかは疑問だと思います。『小牧・長久手の戦い』での失敗が喧伝され過ぎていますが、彼はそれ以外に大きな失敗をした事がありません。四国攻めでも一軍を率いて大過なく侵攻しているし、北条攻めでも「勝って当然」という意識があるせいか、忍城の水攻めに失敗した石田三成が有名な程度で、北条支城をしらみつぶしに、あっという間に攻略していった諸将の活躍は霞がちです。
 これもプロパガンダのせいなのかねぇ、と思ったりしたり。
 あ、秀吉が征夷大将軍になりたくて足利義昭の養子になろうとして断られた、というのは完全に徳川御用学者の林羅山『先生』の捏造だそうですよ。危ない危ない・・・