北条得宗家は生真面目

北条時頼 (人物叢書)

北条時頼 (人物叢書)

 鎌倉幕府を主導した北条氏。そのキーとなる人物は頼朝側近から台頭した北条義時、その息子で御成敗式目を制定し慣例法を条文化した泰時、その弟で浄土信仰から撫民を標榜した重時、泰時孫で、重時の薫陶を受けて結果として得宗独裁を確立した時頼。
 その時頼から北条家は本家ともいえる得宗家が主導権を握り『独裁』になったとも言われるのですが、気をつけてみると義時、泰時、重時はだいたい六十代で没しているのですが、時頼から下の世代は三十代で亡くなる事が多くなる。まぁ泰時と時頼の間には二十代で亡くなっている彼らの息子であり父親である時氏と時頼兄の経時がいますがね。
 これは推測ですが、承久の乱で朝廷を骨抜きにし、あろう事か上位権力者の上皇に『謀反』という言葉を当てはめるほどの強い立場になるまで、北条氏は最有力な鎌倉御家人の一つに過ぎなかったのだと思うのですよ。
 あとからの視点で考えると北条氏は最強勢力であたりまえーとか思うのですが、義時の世代まではその祖父の名前など誰も知らない、いっちゃえばうちら庶民と大して変わらない程度の知名度と影響力しかない訳ですよ。
 だから、こういったらなんですが、義時が主導権を握っていても、別に次の幕府主導権を北条氏が握るとは限らず、『源氏累代の家人』と言われる三浦氏、下野、下総に巨大な勢力を持つ小山、結城、宇都宮、千葉の各氏、頼朝と北条氏との縁戚を梃子にして影響力を拡大したとはいえ、源氏であること明白な足利氏などなど有力な御家人がごろごろいるので、割と気楽に育っていると思うのです。成人したら解らないけど、年少期は同じ世代、同じ家格の同輩みたいな感じで他家の人間と付き合えただろうし。
 ところが承久の乱後は関東のみならず、ほぼ日本全国に影響を及ぼす組織となった幕府主導権を北条氏が握り続ける事を目指すようになります。当然、その子弟に対する教育も様変わりしプレッシャーも変わります。だって幕府を主導するだけでなく北条氏を他家から守らなければならない訳ですから。
 それに北条氏は本当に田舎者で律儀な人間が多く、要求された事を素直にこなそうとするのですよ。そしてそのストレスを解消する術まで生真面目にやるという・・・
 時頼個人だと仏教全般への信仰がストレス解消になる筈ですが、禅という自己問答を繰り返す宗教が特に好きなようで、それってストレス解消になるのか?とか思ったりしたり。
 北条氏もひ孫の高時の代になると、真面目ぢゃなくて、だらしなくなるのですが、そういうのも幕府衰退の一因なのかなぁ、とか思ったりしたり。為政者が適度にストレス解消をしないのは命を縮めるけど、だらけっぱなしというのもあかんよね、という。
 あ、時頼個人の性格は素直、律儀、気配りの人であり、調停型のリーダーといってもいいようです。育ちのいい素直な人物像。
 だから英雄か、と言われるとどうなんでしょうね、と思う。それが魅力の人物ですネ。