もうちょっとです

 日曜日の幻想TRPGさんにて『深淵』立卓決定しました。やったね!PL四人さまを幻想的なダークファンタジーの世界にご案内・・・できるといいなぁ、てへ。
 さて、表題の『もうちょっと』はその話ではなく、こっちの話。

三好長慶

三好長慶

 副題で『室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』とあるのですが、そこまでご本人たちが考えていたかどうかは資料不足につき、不明。
 ただ、『戦国武将は信長が将軍足利義昭を追放するまで、中世的権威を推戴していた』というのは間違いで、三好政権は逃亡した足利義輝をほぼ放置、彼に代わる将軍を持ち出す事はなく(手駒はあった)、朝廷も足利義輝を見放して三好長慶改元を相談。無視され激怒した足利義輝は和睦して京に帰還するまで改元を無視して旧元号を使い続けました。
 統治システムは旧勢力を温存しつつ、敵対勢力を排除。裁判には幕府機構を取り込みつつ、自分たちの決済を行い、幕府の金庫番のような働きもした禅宗の権威、五山寺院のそれを否定し、幕府権威からの脱却を目指していたようにも見えます。
 本人たちの思惑はともかく、足利義輝派との抗争に勝ち、足利義輝派が和睦を何度も破った事から、彼らの権威はほぼ地に落ちており、室町幕府の組織としての存在意義はこの時に終焉したとも言えます。
 木材と西国で唯一の藍の生産地を持つ事により、制海権を握った三好一族は莫大な経済力と堺商人との友好を手に入れ、更に帰依した法華宗との人脈から、おそらく商人系の人脈を持っていたと思われます。法華宗は商人から信仰される事が多いので。
 経済力を持つ事は圧倒的な軍事力を維持できるという事で、三好一族は敵なしでしたが、最初に末弟が死に、次に愛息が病死、次弟が戦死、最後に残った三弟を自ら抹殺して結束していた一族有力者が消え、ご本人も四十二歳の若さで死亡。残った三好一族は『三好三人衆』の阿波派と松永久秀を中心とする大和派みたいな感じで分裂。無視した足利義輝を殺し(三人衆がやった)、自ら傀儡将軍を擁立(三人衆がやった)。三人衆優位を見て松永久秀足利義昭奉ずる織田信長に通じ、彼の上洛、畿内制圧となります。
 一旦制圧は簡単にすんだ織田軍でしたが、その後十年あまりに渡る畿内攻防が開始されますが、前半の敵主力は三好三人衆の阿波勢でした。三好一族の力は侮れなかったということ。
 また『下克上の梟雄』とされる松永久秀ですが、その悪行のほとんどは江戸時代につくられたもので、まず三好長慶生前は彼に従い反抗した事は一度もないこと。長慶世継、三好義興は病死であったこと。松永久秀は義興の同等の権威を持つものとされましたが、幕府内の序列であって三好長慶のそれをこえるものではなかったこと。
 足利義輝暗殺には彼は関わっていないこと。どちらかというと彼は自分の権威の源泉が足利将軍であり守る立場だったかも知れない。
 大仏の焼き討ちは、だって奈良の街中、距離二百メートルで敵陣と対立し、市街地で小競り合いを繰り返したのである。不測の事態はつきものであり、故意に火をかけたとはいえないと思う。
 なので信長が松永久秀面前で「こいつは世の中で成しがたい悪行を三つもやらかしたぜ」と言ったのはフィクション。松永久秀が何度も反逆しながら救われたというのもフィクション。一度目の反逆で茶器を献上して命は助かったものの、それまで認められていた大和国主の立場は剥奪され、敵対していた筒井氏が台頭しているので許されたとは言えない。ただ松永久秀幕臣や京の文化人に人脈を持っていた事は確かで、それを惜しまれるという事はあるでしょうね。
 どうも信長残虐というイメージが先行していて、小説家はともかく研究者もそういう結論を出している人がいますが、考え方がドライというか、素直というとか、精査していくとそんな姿が透けて見えてくると思うのですがね、信長という人は。
 あ、三好さんですね。そういう『図太い田舎者』という面がある信長に比べると繊細で気配りの人で、三好長慶の事を悪く言う当時の文化人はほとんどいない感じ。そういう繊細さが天下を取る前に擦り切れてしまった原因なのかなぁ、と思ったりします。はい。