頭が痛いのは肩こりか風邪か
よく解りません。はい。鼻水が止まってくれればいいと思います。後は平常運転。まぁ冷房かけっぱとかしなければ、惰眠を貪れば、何とか治ると思うよ?(希望的観測
そして読み終わったもの。
- 作者: 平山優
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2011/02/08
- メディア: 単行本
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この本のそもそもの論考は『改訂南部町誌』という山梨県の自治体の地方誌に、戦国時代の著名人(まぁ地元では)を書いてくれというのが発端だったそうですが、現在もそのようですが1999年発行のその本に穴山氏の論を書くには、あまりにも資料がなかったそうです。というか、この本も詳しいのは武田信虎に従った穴山信友・・・信君の親父ですね・・・からなので、で信君が死に。彼の息子は信治と元服するも二十一で病死。その後武田氏縁の女性に産ませた家康五男を跡継ぎにするも、その五男も若死に。断絶。という不幸な一族。
それ以前の歴史は信友も親父の名前すら確定ではないという。一応信風(のぶかぜ)という実名が伝わっていますが、その署名をした文書がないそうです。
室町期から戦国期に至る甲斐情勢は複雑怪奇で、守護の武田氏内部の内紛。実権を取り戻す為に使用した信濃の外部勢力による専横。更にそれを排除する戦乱。そして再び内紛とせわしないせわしない。
それに合わせて記録も散逸したり改竄されていたりと大変な状況らしいです。今後の研究が待たれます。
さて読んでいくと正式な後継者とされなかった武田勝頼の焦りと、信玄亡き後の武田氏に設楽が原で大打撃を与えた織田信長の冷徹な政治判断。その情け容赦ない処置の為に瓦解していく武田家臣団というのが描かれています。穴山信君自身、勝頼との方針の対立、そして徳川の猛攻を前に裏切りを画策し、実行しますが、全ては生き残る為でした。
改めて強調するのは戦国期までの日本では、目下の者を保護できない、助ける事の出来ない上位者は見捨てても構わない存在でした。遠江の自陣営の城、高天神城を結果的に見殺しにしてしまった時点で勝頼の決したも同然でした。
実はその高天神城、何度も徳川に降伏を申し込んでいるのですが、信長は無視するように決定しました。高天神城の悲劇的な最後は、現代ならばそれを成した徳川、織田に批難が集まるでしょうが、戦国時代では助ける事ができなかった勝頼に対して批難が集まり、彼の信用ががた落ちになるという結果になります。
どうも信長の残虐性と現代人が言い立てるのは、この部分ではないかと思うのですよ。信用もなくした勝頼はあっけないほど簡単に織田軍に敗れます。木曾義昌の寝返りで始まった織田信忠の侵攻に、抵抗らしい抵抗をしたのは城一つ。しかも二十日は持つと見られていたのが一日で陥落します。決戦を挑むだけの兵力すら集められなくなった勝頼とその直臣団は、圧倒的な織田勢に全滅させられました。開戦から一ヶ月もたたない、五カ国に影響力を振るった大大名の最後にしてはあっけないものでした。
もしも信長が高天神城の降伏を許していたら、武田勝頼もまともな組織的抵抗ができたかも知れません。
こういう冷徹な判断ができるところが織田信長という人物の特徴なんでしょうね。
ちなみに穴山信君に対する信長の評価は大変高いです。それ以外の武田一門を皆殺しにしてしまったので、その求心力を評価したのか、そして駿河から甲斐への道を穴山氏が下った事で無傷で通過できた事への評価なのでしょうか。
もし信君が横死しなかったらどうなっていたか・・・どうなっていたでしょうねぇ・・・