風雨が強いらしいよ?

 桜の満開はそろそろ終わりでございますネ。昨日満開だって書いたばかりなのにネ。
 昨日、愛知県図書館にちょろりと行ってみたら、興味深い事が書いてある本がありました。字が大きかったから借りなかったけど(オイ
 小牧・長久手の戦い徳川家康にとって生涯最大の勝利を得たといっても過言ではない戦いでした。この一戦の戦術的勝利を得た為に、彼の立場はほぼ決定し、豊臣政権下の重鎮となり、幕府開府を成し遂げる事ができたのですから。
 そんな勝利でしたが、実は結構綱渡りだったようですよ?長久手の戦いと言いますが、実際の戦場は岩崎というところで、当時の文章では『岩崎口』と呼称されたそうです。『口』というからには何処かへの入り口なんですが、これが尾張から三河への侵入路だったようです。確かに地理的にはそうです。地元民が言うから間違いないよ。
 三河を狙う羽柴方の三万とも言われる大軍が大敗したのは、後ろから攻撃されたからでした。後ろからというと追撃戦の形です。散漫の大軍を撃破できるほどの軍勢ですから、最低一万は必要でしょう。それだけの軍勢を埋伏させる・・・小説でもないかぎり無理です。一万人の小都市を隠しておけるか!!
 そこから考えうるのは、三万の軍勢が自分が在陣する小牧山を迂回し三河に侵入しようとしている事に気づいた家康。慌ててその後を追います。そしてあわや三河に侵入される一歩手前で追いつき、結果的に追撃戦の形となって大勝を得た・・・というのです。
 だから家康の心情は「迂闊な事をしやがったな、しめしめ」ではなく「げ、激ヤバ!!」というものだったのではないか、というのですよ。
 だからどやねん、という話ですが、家康くんは勝つべきを勝った、ではなく運をつかむ事ができた、と解釈すべきではないかと思うのですよ。
 確かに家康は運がいい。小牧・長久手の戦いの後、再度羽柴方は徳川・北条同盟との戦争を企画します。既に四国は平定。毛利氏はほぼ中立。西の憂いはありませんでした。しかし結果的に再度の戦いは起こらず、秀吉は母親を人質にする事で家康の臣従を勝ち取る事になります。何故か?
 実はその頃、美濃と越前の境目あたりを震源とする大きな地震がありましてね、その後十年ぐらい近畿地方を中心に起こる地震の引き金となった天正の大地震といわれるもので、小牧・長久手の戦いで疲弊したこの地域に追い討ちをかけるような災害が起こった訳です。もはや大規模な戦争を仕掛けるような状況ではない。だから羽柴方は戦いではなく和睦を選んだという訳で・・・
 まぁ、信長も秀吉もそうだけど、家康って本当に運がいいんだよなぁ・・・