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 4/14(日)文学フリマin大阪いってきます。大阪といっても堺市です。新大阪から地下鉄で37分だそうですよ?設営も手伝ってこようと思うので8:45ぐらいに現地集合。大阪中心地のOMMに二時間弱で到着したので、二時間半ぐらいかかるとみて、やっぱり6:00に家出ないとダメか。朝飯は新幹線ホームのきしめんかなぁ・・・。
 さて読み終えたもの。

織豊政権と東国社会―「惣無事令」論を越えて

織豊政権と東国社会―「惣無事令」論を越えて

 最近学術書読んでいないなぁ、と思って借りてみました。織田信長の勢力圏は武田氏を滅ぼして、その領国を摂取したところまでですから、関東と言っても上野一国を保有したぐらい。これから征服する矢先で本能寺が起こった、というのが通説でしたが、まぁ当たり前の話、交渉のない相手と戦争をする事はほぼなく(ヨーロッパが新大陸にやらかした事だって、最初は交渉でしたからの)、その交渉すら大きな影響を及ぼす事があります。
 どうも織田政権は東国領主たちに対して、そういう影響力を持っていたらしく、反北条領主も北条氏も中央政権となった織田氏との繋がりを必死になって求めています。このあたり、全国の大名が例外なく天下統一を目論んだというのは誤った認識ですよネ。
 織田氏は武田氏を滅ぼした後、東国領主の自力による問題解決を禁止し、『惣無事』即ち武力闘争の停止を求めます。といっても結構高圧。東海、北陸、畿内を制圧し中国地方を侵食する軍事力を持ち、朝廷での高い官位を持つ前右大臣ですから権威も十分。だから実効性の高いものと東国領主は認識したようです。
 実はこの意識が本能寺の変後も織田家のみならず東国領主も縛っていたようです。秀吉が文章の中で勧告した『惣無事』も法令でなく、信長時代を先例とした慣行を守るように、という事だった、という認識だったようです。
 まだ徳川家康は、もう準一門の織田大名という認識で、家康の信濃、甲斐侵攻も織田政権の一員として行動し、他の織田家臣もそういう認識で援軍を送っていたようです。
 小牧・長久手の戦いも、羽柴対徳川・信雄ではなく、織田政権内の主導権争いであり事実上の天下分け目であったといいます。羽柴秀吉織田信雄の。どうも徳川史観という奴がなかなかそう思わせてくれないし、信雄は愚かというレッテルが貼られているせいか、彼の役割は過小評価されておりますが、実力はともかく権威の面では家康の出番はまだない、という感じ。
 家康という人は信長が死んでから伸びた、というよりも豊臣政権下で東国申次となって影響力を伸ばした、という感じです。恐らく関東への転封は家康にとっては左遷というよりも栄転だったのではないか?関東へ移ったからこそ、東国領主への影響力も拡大でき関が原の一方の雄になる事ができたのではないか。それも結果論ではなく、そうなるべく期待されて、だと思います。
 なかなか刺激的でした。