読まれていないと思って好き勝手

 三国志ネタを今日もやろうかと思って。
 曹操劉備の違いの人脈の有無ですが、曹操には『王佐の才』と世間から言われ、『余の子房』と曹操に評価されたジュンイクの存在が大きいですネ。初め袁紹に仕えていたジュンイクが曹操に乗り換えたのは、袁紹が大事を成すことができないから、と評価したからですが、結果的に見ればそうなんですけど、現実にはちょっと違うのではないかと思います。
 曹操はケイ州の、金は持っているけど、どっちかというと軽蔑される家柄ですが、袁紹とジュンイクは豫州の名家出身です。だから袁紹は河北のキ州に根拠地を持ちながら、幹部は豫州出身者が多い。『王佐の才』と評されるジュンイクは結構やる気のある野心家だと思うのですよね。後漢末の名家の評価というのは、広告みたいなもので、積極的に地域の社交界に参加して売り込む必要性があると思います。世間の評判が朝廷の官職獲得に大きな影響を及ぼす時代でしたから。
 やる気の人間が同郷の有力者のサークルに入るけど頭角を現す事ができない。ならば同じ陣営で名家の影響が少ないところへ移動するというのも一つの手です。
 曹操側からすると、それまでは一族と中世日本の『武士団』みたいな武装集団の長ばかりの陣営に、政治的に影響力のある名家出身者が、それも豫州では顔役の家柄がやってきたのですから精一杯持ち上げる訳ですよ。そこでジュンイクも自分の知人、サークル仲間を紹介していきます。後は袁紹よりもリーダーシップを取る事ができた曹操が勝てた、という感じですかね。
 さて劉備くんですが、最初彼が属した公孫サンの陣営は真逆の方針でした。名家ではなく、財力のある人間を評価し取り立てているのです。まぁ幽州は当時は北の果てという印象で中央政界、名家のサークルで名の知れた人物など一握りしかいませんから、州牧だったかの婿になって出世の糸口をつかんだ公孫サンとしては、財力のみ持つ『小人』たちを取り込む事の方がしやすい。財力が政治力を生むのではなく、政治力が財を生む社会にあって公孫サンのこの姿勢は、ちょっと問題でした。また劉備よりもよほど帝室に近い劉虞という人物を攻め殺した事といい、政治的に印象が悪い。
 大将がそんな感じだし、上流階級には縁がなさげな劉備くんとしては、名家とつながりを持ちたくても難しかったのではないかと思います。根拠地を維持できず放浪をしている事もマイナスでしょう。名家は例外なく地主階級で地域の有力者です。自分たちを守れない将軍についていく事などしません。
 ようやく劉備が名家や知識階級を自分の組織に取り込めるようになるのは、荊州新野に七年間腰を落ち着ける事ができた時期でした。曹操の時と同じく、当時荊州を支配していた劉表勢力からあぶれた野心家の名家たちが劉備に接近したのが始まりでした。
 なるほど、動乱の時代でも自分の根拠地を持っていない人間は、脆いものだなぁと自分の思考で思ったりしたりして(自画自賛?