梅雨っぽい天気
曇っています。今週はこんな天気だそうです。まぁ予報は予報ですがナ。
そして読み終えたもの。
- 作者: 元木泰雄
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/09/22
- メディア: 新書
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最初一族の嫡流は源頼光から始まる摂津源氏でしたが、その弟、源頼信が関東で平忠常の乱を鎮めた事により、発展の足がかりを得ます。通説ですとここので源頼信の息子頼義と鎌倉に支配地を持つ平直方の娘が結婚し、関東武士との主従関係が始まったと言われるのですが、この後源頼義が陸奥守となって鎮圧した前九年の役で彼の軍事力となったのは相模に支配地を持つ軍事貴族たちで、主力になったのは出羽の在地武士でした。
関東の武士団はほとんど参加していません。
この後、八幡太郎と呼ばれる源義家が後三年の役を戦いますが、この時も編成は同じ。しかもこの戦いを私闘と判断されて朝廷の恩賞対象にはならず、それどころか国守として徴税というか納付を二年怠ったので、それを収めるまで公的地位を得る事ができませんでした。
軍事貴族というのは受領貴族の一形態だと思います。受領とは国守として税を集め、財をなし、天皇や院や摂関家に経済的に奉仕して出世する貴族のこと。軍事貴族はそれにプラスαとして軍事力、人殺しの技術を持ちます。
義家はペナルティをこなすのに精一杯で、跡継ぎの義親を身入りのいい国の国守にする事ができず、また勢力圏拡大の闘争・・・ヤ○ザの縄張り争いみたいなもの・・・を後ろ盾がない為に私闘と判断され、謀反人と判断され、最終的には伊勢平氏の平正盛、清盛の祖父に討ち取られます。
その後も河内源氏は逼塞を続けます。為義は若くして地位を得たせいか、白河法皇に後援されますが、あまりに暴力沙汰、治安撹乱を続けた為、出世とは無縁の人物に。それでも摂関家に接近してようやく息子たちに芽が出ますが、実際に出世できたのは摂関家の家人から朝廷の、後白河天皇に接近できた義朝だけで、保元の乱の摂関家対王家の武力衝突に敗北し、河内源氏の中央の生き残りは義朝のみになります。
ここで誤解があるのですが、最終的に平氏政権を滅ぼす鎌倉幕府を開いた源頼朝のイメージが強すぎて、平氏と源氏は対等に合い争う宿命のライバルと考えられていますが、実際には既に四位に上っていた清盛を始めとする伊勢平氏一門は中級貴族階級になっており、ようやく五位を手に入れた源義朝と比べれば戦闘力はともかく、財力も政治力も比べ物になりませんでした。
事実、平治の乱で源義朝は敗北側に属しますが、彼はそちらの大将ではなく、藤原信頼という中級貴族ながら武士団を組織する武家の棟梁の性格を有していた人物の配下でした。
そして藤原信頼の失策により(清盛の取り込み失敗、天皇、上皇を手元から失う)敗北しました。
河内源氏が政治を左右する力を持つようになるのは、関東で武士の政権を打ち立てた頼朝からだという事が、そして関東武士と直接関わりを持つようになったのは源義朝から、強制力を持つようになったのは頼朝からだという事がはっきり解って面白かったです。