今後に期待
こんな本を読みました。
- 作者: 戦国史研究会
- 出版社/メーカー: 岩田書院
- 発売日: 2011/05
- メディア: 単行本
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まず『専制的』と言われた織田家の支配体制は、そういう訳ではなく、むしろ他の戦国大名の支配体制と同じようなレベルであったと。武将たちは信長の手足となって働く存在ではなく、自分の領地における裁量権は時に信長の指示を無視する時などあったようです。織田家発祥の地である越前の織田神社に対する禁制、朱印状は何度も関係者、柴田勝家や信長側近がやりとりしてようやく実現したとか。
外交に関しても近代的なものではなく、例えその方面の担当者(取次ぎ)を決定しても、担当者の能力が頼りないとみれば効率を優先して外部の者は織田家実力者と接触しようとしたようです。関東、東北担当として取り立てられた小笠原氏を飛び越えて、太田資正の使者は羽柴秀吉に取次ぎを頼もうとしたらしいし。
こうなると何が織田家に覇権を握らせた要素なのか解らなくなります。火縄銃装備率は他の大名家に比べて抜きん出て高かった訳ではなく、(雑賀衆の方がよっぽど高い)近代的な組織という訳でもない。武田家も北条家も同じような組織でやっていたのですから。
となると、もう経済力しか考えられない。
かつて覇権を握りながら内紛や周辺勢力との紛争を繰り返して弱体した細川、三好ですが、阿波、讃岐、和泉、そして摂津東半分、丹波が領地なんですけど、合計で・・・何万石なんだろう?もちろん細川、三好氏は都市に賦役を課していたようなので、具体的な比較にはならないのですが、尾張で一国で五十万石(江戸時代)こえていた織田領国と比べてどうなのだろうか、と。上京当時の織田家は尾張、美濃、伊勢をほぼ制圧した存在でした。江戸時代の石高だとこれだけで150万石近い。
織田家自体の収入は、津島や熱田などの交易都市を押さえていた事がその飛躍に大きく関係していると思うので、もしかしたら細川、三好とそう変わらない収入体系だったのかも知れません。
しかし同じような支配構造で京を制圧した三好氏が崩壊し、織田家が天下掌握の一歩手前までいった事の理由はなんなのだろうかと思うと、それぐらいしか思いつかない。もちろん、何か証拠があっての事ではないので、単なる素人の予想でしかないのですかネ。
一つだけ違うのは三好氏は京の支配を幕府政所に頼りましたが、織田家は村井貞勝家中で賄ってしまったということ。自分の家臣で京を支配した事にどんな意味があったのか、というのも興味津々。それが最終的に室町幕府滅亡と後世に評価された理由かも。
あ、幕府滅亡は諸説ありますが、最終的に足利義昭が豊臣秀吉に屈した時点で名実ともに滅亡だと思います。はい。
しかしこの本の論文を書いている人、皆オイラよりも年下だ。大学教授の肩書きを持っている人は少ないけど、ふふふ、これは今後に期待ですねぇ。