今日は晴れます
予言します。いや予言しなくても晴れてます。はい。
昨日読み終えたもの。
- 作者: 川岡勉
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2009/08/01
- メディア: 単行本
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山名氏は南北朝の戦乱期に足利尊氏に従って名を上げ、足利兄弟の争い『観応の擾乱』では尊氏についたり、直義についたり、南朝についたり、最終的には幕府と和睦する形で収まるのですが、火事場泥棒的な、あるいは漁夫の利的な利益をあげ山陰地方を中心に、足利義満の時代は十一カ国の守護になるという最大級の勢力となりました。
それが狙われて明徳の乱で一族を分裂させられて三カ国に減りますが、その後の大内氏を主敵とする応永の乱で幕府軍として活躍したため六カ国の守護に。そして当時の当主山名時ひろ・・・字が出てこなかった・・・はその戦功で幕閣として重きを成します。
持豊、つまり宗全はその息子で将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討伐した嘉吉の乱でやはり主力軍として働き、赤松氏の三つの守護分国を確保。その威勢をかって他の守護大名家と縁戚関係を結び、戦功と閨閥で幕府の宿老となります。
が、その支配はあまりにも苛烈・・・というか実効支配を重んじ、公家の荘園所領の年貢を横領したりと戦国大名を先駆けるような形に。それを叱責する将軍の命令を無視したり、隠居しても隠然たる権力を行使したりと、結果的に足利幕府の屋台骨を骨抜きにした人物でもあります。本人は自分の家の利益を追求しただけで、幕府をガタガタにしたなんて意識はないでしょうけど。
将軍の命令が家督相続の重きにならず、実力行使で家督を奪わなければならない状況が応仁の乱を作り出したともいえ、ある意味彼が応仁の乱の遠因を作り出したとも言えるでしょう。
戦国大名の先駆けみたいな事をしたといいながら、応仁の乱後、戦国時代に山名氏が振るわなかったのは、やはり赤松氏との確執が激しく、六年もの長期に渡って赤松氏の本拠播磨を攻めたにも関わらず結局敗退した為、軍事力によってたっていた当主の権威が失墜。お定まりの内部抗争が始まり、その間に出雲の尼子氏が強大化、圧伏され、最終的には織田氏の武将羽柴秀吉に領国の全てを吸収され、大名から転落するという。
てな、事が書いてありました。
こういうメジャーじゃない時代を知るのが楽しいですネ。