忘れてる・・・

 文学フリマ、最後の蒲田、スペースNo.I−14で参加でございます。よろよろ、よろしく〜。
 ということをHPにUPしようとしたら、一ヶ月以上もいじってないので、手順を忘れたっ。十分ぐらいうなって何とか思い出し、何とか予定を書き直す・・・これだから素人は!
 まぁ6/12の文学フリマは蒲田での、とりあえず最後の開催らしいです・・・グッバイ蒲田!打ち上げで毎回食べにいった中華料理屋さんとも、とりあえずお別れ・・・グッバイニイハオ!(マテ
 格安であんなに食べて飲み放題をつけてくれて、しかもおいしい店・・・十二月の開催場所はTRCだったかな。平和島の流通倉庫だらけのところだから・・・ええっと、打ち上げは浜松町までいかないとダメなのかしらん?
 はぁ・・・また文学フリマが蒲田に戻る事を祈っています・・・って、規模がデカくなったから平和島に行くのに・・・アレ?
 んで昨日読み終わったもの。

大正天皇―一躍五大洲を雄飛す (ミネルヴァ日本評伝選)

大正天皇―一躍五大洲を雄飛す (ミネルヴァ日本評伝選)

 明治天皇昭和天皇に比べると著しく評価の低い大正天皇アメリカ人の研究者がどうとらえているのかに興味を覚えたので読んでみました。
 それで生前は絶大な人気を誇ったのに、死後数年でまったく下火になり否定的な見方、しかも精神障害まで噂されるようになった原因と経過が解ったような気がします。
 大正天皇は国際社会のスタンダードを目指し、ヨーロッパ的な教育を受け、洋服を着こなし、一夫一妻を守った初めての天皇で、子供たちと一緒に暮らしはしませんでしたが週に何度も子供たちと過ごした人でした。ヨーロッパ王室のスタンダードに習い、フランス語を喋り、国際社会の流れに沿う形で立ち振る舞う儀礼君主であり、立憲君主制天皇としては及第点を与えてもいい存在でした。
 そのまま日本が欧米に寄り添う形でいたら、大正天皇も現在の皇室の原点みたいな扱われ方をしたでしょうが、時代はナショナリズムが吹き荒れた頃。きっかけは一連の軍縮会議に反発したところから始まったのでしょうが、欧米への反感が高まったところに、晩年『日本的なもの』に固執するようになった明治天皇の記念式典があり、西洋化の象徴である大正天皇と、ナショナリズムの象徴となった明治天皇の評価が逆転します。
 大正天皇の不幸とは、価値観の流転であり、その流転が日本の敗戦に繋がっていったのか、それが日本の不幸だったのか、という評価でした。
 面白いのは大正天皇の『病弱』は殊更いうほどのものではなく、十九世紀の日本の皇室、天皇に限っても平均寿命はこえているし、幼児が健康でいるのが難しい時代だから仕方ないこと。教育に関してもヨーロッパ風の初等義務教育を始めたばかりの、試行錯誤の時期に当たったのだからやもうえないし、数学を除いて、それほど問題のある学力ではないし、文系は優秀であったといいます。
 『憎き西洋』の象徴になってしまった事が、天皇であった人であってもここまで貶められる事になるのかと思うと、怖いし気持ち悪いし、人間心理って信用ならねぇなぁと思います。
 生前は今の皇室がやっている事をほとんど全部やってのけて、現在まで続く皇室人気はこの人がいたからこそあるというのに・・・皇室フリークな人たちは、こういう事を知っているのかな?