あ、曇ってきた
昨日「すべてがFになる」を読み終えました。いつ買うのかな?と言いながら続巻を昨日のうちに買っているし。
しかし、ええっと、犯人の特殊性に全てを求めるのは、やっぱり好きになれんなぁ。犯人が犯した一連の犯行に対する動機の説明が弱い。ので、これはミステリーというよりもファンタジーじゃねぇ?とか感じました。
謎解きでも、これはねぇ・・・。
「黒の三角」の時に感じた違和感はやっぱりあって、これを痒いところまで説明してくれるミステリーと考えてはダメだと、「スカイクロラ」みたいなファンタジーだと思わないと、読後に違和感を覚えます。
そうなんだろう。たぶん。
あと、自分が『天才』とか『名将』という言葉を気安くつかって欲しくない人間である事を再発見。自分の『天才』定義が革新的な、そしてその後誰もの日常で使われる事をつくりだした人であり、『名将』も士官学校とかで教材にとりあげられ、その戦術に当てはめれば、一人前の能力がある軍人なら勝利を収められるというものを作り出した人と考えているので、歴史上、その人数は恐ろしく少ないです。
特に武田信玄や上杉謙信は、その図式に当てはめる事はできない。有能で優秀な政治家であり軍人であるだろうけど、彼らの戦術は彼らにしか使いこなせない。普遍的なものではない。
その定義で言うと『戦争に弱い』という評価をもらっている信長や秀吉は、一応圧倒的な兵力を用意し、兵站を確立して戦闘に望むという近代戦の普遍的な最低限の条件を満たそうとしている点、名将と評価できるのではないかと思います。
恐らく、信長の『革新』、秀吉の『成り上がり』に目が行っているかぎり、日本の軍隊は絶対に、戦闘に勝つ事ができても、戦争に勝つことができない組織から抜け出す事はできないでしょうね。
信長、秀吉を『凡将』と評価する人たちは、華やかな事ばかり目が向いて、本当に大切な事が見えていないかも知れません。
と、上から目線で書いてみる。いかんかなぁ?