寝苦しい日々が続いています。

 ふふふ、汗かくと胃腸も悪くなるらしいですよ?脱水症状とかが起こるから?さぁ・・・どうなんでしょうね・・・
 昨日、興味深く読み終えたもの。

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

 日本史のジャンルで宗教を正面からとらえるのは大変珍しいのですが、これはそういう一冊です。大変、目から鱗な本。
 以前知り合いに「日本には宗教戦争はなかった」と言った事があります。その時の定義がしっかりしていなかったなぁと思うので、ここで再確認を。
 いわゆる『宗教戦争』というものは、お前んとこの教義は間違っている。いや悪魔の教えだ。だからぶん殴って矯正してやる。ありがたく思いやがれ。平たくいうとそういう気持ちでお互いが殺し合い、和睦の条件は負けた方が改宗する、それまで信じていた自分の宗教を否定するところまで行きます。
 ところが日本史の中に教団同士の争いというのは数限りなくあるのですが、ほとんど全て政治闘争であり、和睦の条件も本山を破却するとか、移転するとかそういう条件はありますが、教義そのものを否定するものはありませんでした。
 例外は法華宗日蓮宗といわれる人々で、彼らは他者を排斥、攻撃するところに特徴のある宗派です。これが戦国時代の人々のお気に召さなかったらしい。
 多神教とも言われる日本の宗教界ですが、数多の仏も神も、全て一つの『天道』というものにつながっており、『天道』の教えに悖るものは天罰を食らうという、何だか一面一神教っぽいところがある。だからほとんどの宗派や人々は、大元が同じなのだから互いを排斥する事は無意味であると、却って無意味な争いごとを引き起こすばかりであると言う訳ですネ。
 自力救済で、つまり生き残る事に忙しいから、腹の膨れない宗派論争なんかやっている暇がない、なーんてぶっちゃけた話なのかも知れませんが。
 ところがそこに入ってきたキリスト教、それもローマ・カトリックの中では例外的な攻撃的な宗派であるイエズス会は、『デウス』という神以外は排斥し、悪魔、邪教といって日本の仏教、神道を排斥、破壊し、僧侶や神官の殺害も起こってきます。キリスト教に改宗した人々にとってはそれが『デウス』の御心にかなう事なのですが、予定調和の日本の宗教を信仰している人々からすれば言語道断な乱暴な行為で、かくしてキリスト教は従来の日本の秩序、習俗を乱すものとして排斥されます。
 その頂点が島原の乱で、これ苛政にあえぐ民衆がキリスト教をより所に反乱を起こした、という文脈で語られる事が多かったのですが、どうも事は単純なものではないらしい。攻撃的なキリスト教と、それを迎え撃つ日本の宗教。その抗争の果てに大名によるキリスト教禁制が強まり始め、キリスト教徒の百姓が『信仰の為』に立ち上がったという。なので同じ村の中でも「キリストの教えに従え。でなければ殺す!」と無理やり改宗を迫られた人もいたし、宗教を理由に抹殺された人もいます。
 また原城に篭城する乱の最終局面でも、一揆側は指導者の命と引き換えに篭城した人々の助命を願いますが、幕府側はほとんど唯一の条件としてキリスト教からの改宗を要求し、それが受け入れられなければ一切の交渉に応じないといいます。
 これって、まぎれもなく宗教戦争ですよね。
 キリスト教徒の殉教、幕府権力者の圧制という面で語られる事が多いのですが、実情としては、日本の秩序、習俗を否定してまで布教しようとするキリスト教側に対する日本人の拒否反応、そして鎖国に繋がる事件ではないかと思います。
 こういうのって面白いですよねー。