ええ天気やなー・・・

 土曜日の土砂降りが嘘のようですわい。
 二日連続でTRPG。土曜日がウォーハンマー。前衛役が死ぬる死ぬる。その屍の上に後衛が立っている・・・考えるだに酷いナ。医者なんかとらんと、とっとと司祭になっていればよかった。そうしたらまだマシだったかも。
 日曜日はD&Dゲームデーのシナリオをテストプレイ。相変わらず、自分の役割を把握していないとつらいゲームだ。絶妙なバランス・・・最初の戦闘で絶望するも、最後の戦闘はナントカ光明をみつけました。ほんと、なんてギリギリなバランス。でもオイラはゆるゆるマスターだから、これぐらいキツイのがいいのかもネ・・・などといっていると、去年のゲームデーのようにPT全滅になりますな、こりゃ。気をつけよう。
 金曜日に書いていた、あの読みかけの本。『畿内、近国の戦国合戦』。題名の近国ってのがよく解らん。どの地域なのか知らん。近畿ってこと?なら近畿の戦国合戦でいいよーな・・・。
 戦国時代、織田信長が上洛し、足利義昭を奉じていた当初の危機的状況がだんだん把握できてきました。なるほどー。こりゃあ足利将軍を擁しているというスタイルをとらないと、まったくもって畿内制圧なんかできないわ。しかしそれでも、軍記ものの類しかなく正確な兵力が不明なのですが、延暦寺を味方にし比叡山に押し寄せた頃の朝倉、浅井連合軍はかなりの『大軍』で織田軍よりも遥かに多く、しかも信長は南を三好、本願寺の連合軍に圧迫されていました。三好、本願寺足利義昭を仲介に立てて講和する事ができたようですが、朝倉、浅井は朝廷を仲介にしなければ和睦できなかったみたいで、京の人間は浅井、朝倉を「とろいんちゃう?」とか言っていたようです。
 しかし、数に劣っても京、奈良の人間は『織田軍強し』の印象を持っていたようです。徳川の方が織田よりも戦はつよーい、という認識は徳川幕府の御用歴史家の捏造である事は、もうわかっている事なのですが(三河武士が犬のように徳川家に仕えたなんて嘘ですから)、しかしそれが織田軍強しにはならない。経済力に優れていて、雑兵を集める事が得手であると理解していたのですが、信長以前にも京近国の大名は経済力に合わない動員力があったようです。六角氏が二万の兵力を集めるなんて、書き手が誤っているのでなければ、経済的に常備軍としてはありえない。そんな軍勢に京や奈良の人間は慣れっこだった筈です。
 牢人、雑兵で数を集める近畿の大名とは違う織田軍の『強さ』があるはず。その辺を学術的に調べて欲しいですよネ。
 いや、小説的推測はできるのですがネ。