この手の読み物はところどころ不満があります

 よく晴れて暖かい日が続いております。桜の開花も早いらしく、今週末には咲いちゃうらしいです。いいこと?いいことだよね。うん。とはいえ、あたくしが外出を予定している金曜日と日曜日の天気が怪しいらしい・・・マテヤコラ。
 そして昨日読み終わったもの。

敗者から見た関ヶ原合戦 (新書y)

敗者から見た関ヶ原合戦 (新書y)

 章題が週刊誌のあおり文句のよう。
 誤字が多い。
 君は一体誰の味方やねんっっ、と突っ込みを入れたくなるような中途半端な文章。
 それでいてオレサマカシコイな雰囲気が漂う・・・
 とまぁ、読んでいて白ける場面が結構多いのが、この手の新書の特徴なのですが、それでも著者が現代のものであっても関ヶ原を実際に歩き検分したこと、地元の考古学調査の資料を利用している事で、結構面白い記述が多かったです。そうでなかったらここには書かないのですが。
 まず、関ヶ原に誘い込まれたのは東軍方であったこと。最初の形勢は大垣城にこもる西軍。川を挟んでその西に陣した東軍。両者の南方に陣取った毛利主体の軍。と、こんな感じで大垣城籠城戦の雰囲気でした。通説だと野戦が得意な家康が籠城戦を嫌って大垣城の西軍を誘い出したというのですが、家康到着と西軍が大垣城から移動した日がほとんど一緒なんですネ。しかも誘い出された割には西軍は整然と移動しています。これは西軍側が軍議で決定した作戦を実行した事であるといいます。それに行軍も三万の徳川勢到着で多少混乱している東軍方を迂回して中山道北陸道を封鎖する形で陣取っています。誘われたなら、そのまま東西逆で陣取ってもいいようなものですよね。
 それから、関ヶ原にはあらかじめ大谷吉継の軍勢などが築いた強固な陣地がありまして、西軍方はそこに篭り殺到する東軍を迎え撃ちました。だから緒戦は有利に戦いを進めた訳ですな。
 日本の合戦史において少数が多数に勝ったという事例は奇襲戦を除けばほとんど皆無と言って良く、がっぷり四つに組んで正面からの戦いでは必ず多数が勝っています。もしこの戦いで西軍が勝ったなら、珍しい事例になったかも知れません。
 石田三成という人は、日本史史上一二を争う軍略家、政略家である豊臣秀吉の側近として、早くから才能を認められた武将でした。そのあまりの使い勝手の良さに秀吉が手元から離さなかったのが運のツキ。もし単独で戦場を指揮する場面があったなら、彼はかなり優秀な武将として名声を博していたかも知れません。関ヶ原の合戦においての戦術面の布石は家康が及ぶところではないので。関ヶ原の合戦は軍事というよりも政治が勝敗を決した戦いでした。いや、軍事も政治の延長であるというならば、やはり石田三成は善戦及ばず敗北した、という事なのでしょう。
 しかしまぁ、その後の西軍大名の運命を、その経過をくわしく知ると、長宗我部や毛利の迂闊さは腹立たしいくらい。島津の用心深さと粘り強さは拍手したいくらいです。もし島津勢が五・六千も参戦していたら、こんなふがいない働きはしなかったのに・・・と島津義弘が悔しがったというエピソードが、石田三成大谷吉継、宇喜田秀家ら善戦して滅び去った西軍大名の姿と並んで清々しく感じました。