食べすぎ飲みすぎ、ご用心

 いや、昨夜はクエを食べ過ぎました。げふー。
 名古屋あたりではクエは高級魚という扱いらしいです。よく知らんのですが。味はプリ系?美味いけど、なんかですね、皆前菜で満足してしまって肝心の鍋で箸が進まず、よく食べると認識されているオイラに「食え食え」とクエをくれる訳ですよ。もったいないので食べましたが、最後には「ゲロっちまうぞ!!」と脅さなければならない羽目に。げふー。
 まぁ、大変おいしゅうございましたが。
 歴史系の読み物を読んでいると時々出てくるのが鎌倉幕府崩壊の提唱者、後醍醐天皇『英主』説。今読んでいるのは室町の守護大名赤松氏の話で、鎌倉幕府倒幕で台頭した一族なだけに南北朝の動乱は紙数を割いていますが、著者、割と後醍醐天皇に批判的な事を書いているのに、結局『英主』と言っています。
 ここで曖昧なのが『英主』の定義で・・・落ち着いて考えてみると後醍醐天皇という人はローマの歴史家タキトゥスがいうところの、「平時では有害、戦時には役立つ」という種類の人間ではないかと思うのですよ。だいたい倒幕の直接動機が、自分の子孫に不利な皇位継承を変える為、その為に邪魔な幕府を倒す、ですからね。当時の皇位継承持明院統大覚寺統という二系統の天皇家が交互に行っていました。後醍醐天皇という人は、その大覚寺統なんですがもともと兄、後二条天皇が早世した為に皇位を継承したという経緯があり、順当にいけば甥っこに天皇の位を譲らなければならない立場だったんですな。それをひん曲げる為に武力行使を企図したという・・・よく言えばやる気満々な人です。これは異論がありません。
 しかし、ただ相手をぶっ飛ばすだけで、その後の秩序回復にこの人は何一つ貢献していないのですな。倒幕後の混乱を収拾する立場にいながら朝令暮改の命令で混乱に拍車をかけ、自分の側近や公家ばかりを厚遇したために不公平感が広がり、結局のところこの人がやった事は、その後六十年に渡った日本の混乱期を開始しただけ、といっても過言ではありません。
 その後、天皇家の立場が強くなったというならば、まだしも意味があったのですが、事実は真逆で、それまで皇室が持っていた荘園支配権は戦乱を通じて有名無実化し、朝廷を運営する費用すら幕府が守護大名に臨時課税するものを頼らなければ大きな、常用な行事を行うことができなくなります。つまり天皇家、ひいては朝廷の立場を弱くしてしまったというわけで・・・こんな人が『英主』と呼べるのか?と思いますネ。
 これは南朝ひいきの立場にいる『太平記』の影響なんですね・・・まぁ、これがプロパガンダの力って奴かな?こわいなぁ。