蒸し暑い日々が続いております。

 昨日読み終えたもの。
 

奥羽仕置と豊臣政権

奥羽仕置と豊臣政権

 織田家が都で政権を、少なくとも武田家を滅ぼす前後から九戸合戦まで経過をそれぞれ分立した小論文を時系列に並べた本です。やはり中心は伊達政宗であり、彼の領土拡大と中央政権の対応が主軸です。そして一連の処置で豊臣政権は伊達家の勢力をそぎ落とし、上方武将である蒲生氏郷を奥羽最大の勢力として、つまり目付けのような存在として配置する事に成功しました。彼は四十歳ぐらいで早世してしまいますが、もしも関が原の合戦まで生きていたら間違いなくキーパーソンの一人となっていたでしょう。
 また、『殺生関白』と悪名高く失脚抹殺された秀吉の甥、秀次なのですが、資料上では、とくに東国、奥羽の政策に関しては積極的に関わっており、東国取次である徳川家康と並んで政権重鎮として役割を果たしています。九戸合戦が終わり豊臣政権下での関東、奥羽の大名配置が決定された時点では、彼が東国大名の取次、旗頭であった事は間違いなく、もし彼が失脚せずに秀頼の補佐ないしは中継ぎの政権主催者として存在していれば関が原の合戦は起こらなかったかも知れません。徳川家康とは親交がありそうですし、本人が中継ぎに徹する立場を見せれば豊臣武功派大名たちも彼の下に結集。石田三成は失脚という形で政争は片付いたかも知れません。
 何となく通説が言っているほど無能ではないように思えます。大体からして無能であるならば徳川家康と並んで東国大名の配置責任を任される筈がなく、秀吉も彼らの判断を認めて裁可を下しているわけですから。もちろん家康にやられっぱなしでお飾りだったという解釈もあるでしょうが、九戸合戦時点での秀次は秀吉の第一後継者です。政権下最大の大名に手もなくあしらわれているようでは、その時点で明らかに失脚じゃないですか。密室で話し合いが行われる可能性や必然性もないので、多数の家臣を交えての協議、手紙のやりとりをしているでしょう。無能ならすぐにボロが出ると思うけどなぁ。
 通説っていうのはたぶんに物語的です。さもありなんという状況こそ疑わしいのかも知れません。
 なーんか、悪く言われている人が実際は活躍しているのを見つけると、なんか嬉しいんですよねぇ。