晴れてて寒い・・・

 なんかお昼には雪が降る予報だそうです。積もらないとは思うけど・・・イヤだなー。いや降ったら降ったできれいだなーとか思うのだろうけど。
 関が原の合戦と大阪の陣について書かれた本を読んでいます。一日で八割がた読んでしまった・・・という事は暇だということで、あんまりよろしくない事ですがネ。
 関が原の合戦について新しく知った事は、東山道を通った秀忠軍の目的が、どうも西軍方の拠点を潰しながらの行軍であったらしい、との事。だから真田昌幸にしてやられたのもいたし方なしって感じ。秀忠の指揮能力云々よりも徳川氏首脳の戦略ミスのような気がする。
 家康が江戸をなかなか動かなかったのは、先鋒の豊臣系大名たちを信用し切れなかったことによるらしい。
 小山評定で西軍の対決する事を決定した時、まだ上杉追討軍の諸将には徳川家康も含めて、石田三成大谷吉継が謀議しているらしいという事しか解っていなかったようです。西軍首謀格である増田長盛など石田三成謀反と家康に急報しています。これは豊臣政権の事務方が首相格の五大老筆頭家康に、ほんとに事務的に通報したというもの。その後三成に説得されて家康を討つという方針になり、奉行の連署で檄を飛ばしたと。公的機関である奉行が家康を討つよう宣言したということは、すなわち豊臣秀頼の名において命令したという事で、石田三成憎しで家康に従っている連中が、秀頼の名に逆らえるのかどうか、というところが信用できなかったらしい。
 それはまぁ、先鋒が要害の岐阜城を半日で落としてしまった事によって家康も腰を上げるのですが。
 それにしても、この本の著者笠谷和比古という方は家康が野戦上手と評しておられますが・・・どうかな。
 関が原の布陣は西軍の包囲殲滅陣形で、それだけ見たら西軍が勝ってしまうもの。小早川と毛利先鋒の吉川広家が寝返りを確約しているとはいえ、実際の戦闘で予想外に西軍、特に宇喜田、石田軍が敢闘し、あまつさえ石田勢など三成憎しの豊臣諸将の総攻撃を受けながら持ちこたえ、敗北が決定的になっても一兵卒にいたるまで三成を見捨てなかったというのを知ると、そして小早川が裏切りの好機を見つけられないまま参戦を躊躇している状況を見ると、もう一つ、先鋒の先発権、先制権を盾に毛利、長宗我部勢を吉川広家が押し留めていたのですが、毛利の大将秀元がそれを無視して参戦していたら一体どうなっていたか?
 あえて罠にはまって見せたというものの、計略頼みの作戦である色合いが強く、何だか詰めが甘い。小早川が動かず、催促の鉄砲撃ちで裏切りを促したのですが一歩間違えば「やる気か!やったろうじゃんかー」と自分たちに向かって攻撃してくる恐れもある危うい賭けでした。
 こうやって見てみると、実際の戦闘、戦術において家康が三成に勝っていたとは言えないと思います。自分の主力の動かし方が手ぬるいし、策謀に頼りすぎているから危うい。原因は三成憎しの豊臣系大名に引きずられ、自分がスケジュールを主導できなかったという事になりますが、それだけ関が原前の家康は強力な存在でもなかったという事ですかね?清洲会議で主導権を握って二度と離さなかった秀吉とはエライ違いだ。
 大阪の陣に至る過程においても、どうやら家康は婚姻によって天皇家と関白豊臣家の包摂を狙っていたらしいのですが、自分亡き後の徳川家に豊臣大名を威圧できるカリスマがあるのか?という事を疑問に感じて、そして秀頼を強力支援するだろう加藤清正浅野幸長が死んだ事によって豊臣潰し、あるいは弱体化を策したというけれど、どうなのかな?それが本当なら、やはり家康は詰めの甘い人ですナ。後継者である秀忠に『戦下手』の烙印を押してしまったのは他ならぬ家康と徳川首脳陣なんですし。
 方広寺の鐘に刻まれた漢文を理由に難癖つけたというのは、どうも文章をつくった側の凡ミスで勘ぐられても仕方ないものだったらしい。それは納得できて、相手のミスを拾い上げた家康の勝ちって感じはしますネ。