今朝の新聞で知ったこと

 脚本家の鳥海尽三さんが今年亡くなっていらっしゃった事を今朝の新聞のコラムで知りました。
 新聞の記者の方は『みつばちはっち』(だと思った)で知っていたようですが、私にしてみると『装甲騎兵ボトムズ』の脚本の方が印象深いです。心すさむボトムズの世界で鳥海さんが担当された回のエピソード、主人公のキリコが囚われの身になった時、仲間(この時は未満かも)が盗んだ(ようなもの)ばかりの大量の金貨を街にばらまき、その混乱に乗じてキリコを助けるという話がとても好きでした。あれがないと、まぁ酷い話のオンパレードというか、よく自分は小学時代に見ていたと思うぐらい人間不信になってしまいそうなエピソードてんこ盛りでした。・・・正確にはクメン編の終盤から毎週見るようになったのですがね。今はメモリアルBOXを買い、新作まで限定版で手に入れたりしていますが。
 その鳥海さんが記者の方に出版社を紹介して欲しいという。歴史小説を考えていらしたらしく、かつて企画書を一発で通した辣腕を彷彿とさせる、章立て、登場人物略歴、時代背景、創作意図、章ごとのあらすじなどがきっちりと書かれた、もう小説本編を書くばかりという内容の依頼書が記者の方に届いたそうです。
 結局その話は出版社の方が著者の年齢を理由に話がまとまらなかったそうですが、創作者(アマチュアだけど)の一人として、何だか頭をぶん殴られたようでした。
 学生時代はありあまる時間の中で設定をつくり、それをもとにあらすじを何度も何度も考えたものです。しかし実際に書いてみるとそれらの設定はあまり使われる事なく話は進んでいくものです。それ以来、必要最低限の設定で話を書くという事にこだわったりしてきました。登場人物が少ない方がこちらが話を管理しやすく話を掘り下げやすいとも思いました。
 ただ、その手法は短編では都合がいいのですが長編を書く場合は、ネタがそうそうに尽きるのですな。やっぱり設定のストックが必要だと感じて、『飢えたる狼(仮)』はちょろりちょろりと設定を書き溜めている次第です。
 しかし書く際には、やはり手探りでやっている場合が多い。先ほどの鳥海さんのようなプロットは書かれても読まず、そのまま書いてしまうからです。でもそれは手法的に間違っているかも知れないと思ったりする。書くという行為は、書く為に考えるという行為を伴い、一度書かれたという事は一つの物語を一度なぞった事になります。何度も何度も考えなおせば自然と完成度が上がるというもので、確かにこれは無駄な行為ではないのでしょう。
 創作というものは、はやり気合を入れて書くべきなのだと改めて考えさせられました。
 うーむ、書くこと自体を楽しみにしちゃっている私ですが、やっぱりもっと、せめて技量、作品はプロ並みって言われるぐらいにはなりたいものです。