昨日の続き

 今日も職場から書いています。あんまりいい事ではない。でもまぁ時間がある時に書くだよ。
 魏の文帝が皇位禅譲されるまでの群臣とのやりとりが、随分な分量で注に書いてあります。魏の文帝の本紀に。
 よく礼儀として形式的に三度辞退し、四度目で受けるという行動様式があるのですが、それなら上奏文やらなんやらも形式的なやりとりでつまらない文章ばかりで、どうでもいいのですが、彼らの、特に文帝の文章は謙譲を表すにしては異常、というよりくどい。漢の朝廷からは二・三度命令文が届く。それに対する魏王の宮廷側の応答だけ載せればいいのに、文帝と彼の臣下である三国志演義によく登場する部下たちとのやりとりが大半を占めます。
 部下たちはどうにかして文帝(いや名前は打ちにくいから便宜上こう書いています)に皇帝になってもらいたい。ところが文帝はそんな大それた事はしたくないと言い返す。それを何度も繰り返しているわけですね。こういうのは舞台裏でして本来は書くべき事ではない。だから野史には載るけど正史には載せないことで、『三国志』でも陳寿は書かず注を入れた・・・ええっと読みは解るけど字の部首が解らないから調べられない・・・人が追加で入れています。
 注を入れた人は三国を統一した西晋が崩壊し、江南に亡命した東晋時代の人だったはず。だから正当な皇位後漢→魏→西晋と受け継がれた事を証明しなければならない立場で、まぁ皇位継承の問題で魏に不利になる事は書かないでしょうけど、でも地方政権に過ぎない蜀を正当視する立場は、それよりもっと後、名分論がやかましくなった北宋時代ですから劉備の味方をする記述の方が絶対、時代が新しいので信用ならない文章なんですよねー。
 そう考えると、魏の文帝が皇位継承に躊躇したというのも信じていいのではないかと思ったりします。
 それに比べると劉備は躊躇なしですな。献帝の死亡情報を後に誤報と知ったとしても、それを聞いた途端にただちに皇帝になっています。その前の漢中王になるのも、なんか形式的なんですな。もちろん曹操も魏王になっていますが、その前にもっとも信頼する参謀役の荀いく(この字は部首が解らない!!)との軋轢とか結構ごちゃごちゃ揉め事が起きています。だいたい通説では彼が後漢擁護派となっていますが、それだとどうも説明がつかない。だいたい彼は自立できる地主階級のいわゆる清流派です。王朝に寄生しなければならない宦官の家に育った曹操とは違う。食っていくだけなら自前の土地や勢力があり後漢王朝を温存する理由は希薄。しかし曹操の家は皇帝家から得る有形無形の利益で成り立っていたのだから、どちらかというと彼の方が王朝を潰す事に躊躇するのではないかと思ったりする。だから彼と曹操の軋轢は、新しい王朝を創設して、その創生期の功臣として最大級の恩賞にあずかりたい彼と、心情的に後漢王朝を滅ぼしたくなかった曹操との争いだったのではないかと思ったりします。
 結局彼は死にいたりますが、曹操も彼が代表する群臣たちの声を無視できず魏公になる。こういう流れの方が自然ではないかなぁ。そうじゃないと『王佐の才』といわれるほど頭のいい彼が、曹操の野心も見抜けなかった間抜けという事になってしまう。
 そういう苦悩が曹操にはあるけど劉備サイドにはないのですな。どこまでも自分の欲望に素直でカラッ、あっさりしている気がする。関羽の弔い合戦とかいって躊躇なく本来手を結ぶべき孫権に攻めていくのも、外交センスがまったくない関羽を境目の太守にした事も、親分子分の関係で物事を決めていて解り易い。その解りやすさが民衆に受けたのだと思います。複雑な人間を描くには文学が必要だけど、そこまで成熟させるのは難しいし一般受けもしない。
 だから今も三国志ネタは劉備主従が主人公でまかり通っているのかなぁ。歴史的に彼が果たした役割は、騒乱の一方の旗頭、程度なんですけどネ。