寒いですよ!

 半端じゃない寒さですよ!といっても名古屋はまだ最低気温が零度以下になった事は、今年度の公式の記録にはなっていないので、暖かい冬なんですけどね、やっぱり。
 今、戦国期西日本の合戦とかの本を読んでいますが、主役はやはり毛利氏と言っても過言ではないのですけど、面白かったのが、毛利氏自体は織田家との開戦を渋っている様子なのですネ。
 当時の毛利は九州に大友、山陰に尼子の残党、山陽においても毛利氏の勢力拡張を不気味に感じている浦上氏の動きなど、大友宗麟によって構築された毛利包囲網の只中にありました。足利義昭が便後に逃れてきた頃には、尼子の残党は退け、浦上氏も壊滅状態になっていましたが、その勢力が安定したわけではなかったのです。
 しかし、時間の経過とともに境目の武将たちが織田家に切り崩されていくのは解っているので、どうせ戦うなら早い時期の方が良いと判断したようです。北陸では上杉謙信が惷動していましたし、それを受けて松永久秀畿内の武将たちの離反も明らかになりつつありました。事実、毛利が反織田に立った事で播磨の別所、摂津の荒木と大名級の武将が織田家を離反しています。
 ただし、当初は互角以上の戦いをしていた毛利氏ですが、次第に織田家、それも羽柴秀吉、秀長兄弟におされ気味となります。はっきりと不利になるのは宇喜田直家が離反した頃でしょうか?特に山陰地方で自らの与党が切り崩され、鳥取城の明け渡しとなりました。
 その後を受けての備中高松城のいわゆる水攻めになるのですが、既に周辺の毛利氏配下の武将たちの去就は浮き足立っており、元就の娘婿までものが寝返ろうとする始末。結局本能寺の変に救われたのは毛利氏であり、背後を大友、瀬戸内を寝返った水軍、そして山陰では織田家与党の南条氏と敵に囲まれた毛利氏では、畿内に引き上げる秀吉を追撃する事などできなかったわけですね。
 毛利という大名は下克上の代名詞ともいえる存在で、安芸の国人領主から中国の覇者にまでなりました。しかし、だからこそ貴種である事の権威というものを持たなかった。一族の結束と元就の才知によって大きくなったと言えます。
 戦国時代は思ったよりも権威が重んじられ、幕府なり朝廷なりを淵源とする権威をまとおうと皆必死です。そんな中で征夷大将軍を手中にすること、敵にまわす事がどのくらい重要なのか。通説の解釈では信長を離反した武将たちを説明するのに彼の性格に理由を求めなければなりませんでしたが、足利将軍の権威を評価すると、国人出身で、源氏でも平氏でも藤原氏でもない毛利氏(先祖は大江氏)が織田家と戦う際に、その実力以上の力を発揮できたこと、そしてその足利将軍を敵に回した際に織田家というものの存続が危うくなる、少なくとも織田家に従うことが自分たちの利益となるか解らなくなる・・・と外様の武将たちが考えるのも理解できるのではないかと思いました。
 はぁー、長いな。